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グッド・モーニング・ベトナム(2009.11.30)

「デルタ地帯にある別の地区には、ナパームによって両腕を焼き落とされたうえ、ひどいやけどを負って、まぶたを閉じられなくなった女性がいる。眠るときには、家族が女性の顔に毛布をかけてやるのだ。そんな重傷を負わされた空襲で、さらに女性はふたりの子どもまで失った。自分の国が空軍力を使って南ベトナムでなにをしているか、ほとんどのアメリカ人は知らない」
 〜『ニューヨーク・タイムス』1965.9〜


「外国人がわれわれを憎むのは、われわれがいわゆる自由と正義を押しつけようとしているからではない。われわれが憎まれているのは、われわれの傲慢さゆえなのだ」
   〜カート=ヴォネガット『国のない男』〜



ちょっと古いニュースになってしまったが。
マクナマラが死んだ。
『デモクラシーナウ!』から。

「番組では、二人の歴史家ハワード・ジンとマリリン・ヤングNY大教授を迎え、ロバート・マクナマラの良心の葛藤と限界、この優秀で複雑な人物の人生の軌跡が後代に遺した教訓を考えます。また1967年に特派員としてベトナム戦争を取材し、国防総省でマクナマラ氏に極秘会見したジョナサン・シェルからも話を聞きます」
という内容だ。

ちなみに、私にとってのベトナム戦争とは、主に、アメリカ映画に描かれたそれだ。
映画の出来栄えに差はあるが、思いつくままに並べていってみよう。
『地獄の黙示録』『ランボー』『プラトーン』『ディアハンター』『フルメタルジャケット』『7月4日に生まれて』『グッド・モーニング・ベトナム』。時間をかければ、まだまだいくつものタイトルを思いだすことができるはずだ。
アメリカをこちら側、ベトナムをあちら側と仮に呼ぶとして、こちら側の思惑や出来事しか語れない、程度の差こそあれ、あちら側を描ききれない、という限界を、これらの映画は共通して持っている。
もちろん、アメリカ人のやることだから、映画を作るに当たってはあきれるほどに生真面目だし、ベトナム戦争全体に対しての反省や欺瞞性への怒り、というものも、やはりそれぞれの立場から、生真面目になされてもいる(『ランボー』や『ディアハンター』ですら、手前勝手なゆがんだ反省をしているのだ!)。
しかし、結局は、「あちら側」というものが、決定的に欠けている。
これほどの規模で行われた戦争を、当事者であるとはいえ、自分たちの側からでしか見つめることができない、という内容の映画を、当時の私は非常に興味深く眺めた。
その興味はやがて、長い時間をかけながら少しずつ整理され抽象化され、「倫理」「道徳」「洞察」というみっつの基準を、私の内部にはぐくむことになった……と、いまになって思う。
「あちら側」が欠けている、とは、つきつめると「倫理観」が欠けているのと同義だ。……と、少し乱暴な言い方になるけれど、ベトナム戦争を描いたアメリカ映画から感じた私の直感は、やがて、私が世界を測るみっつの物差しとなった。
そして。
あちら側を軽視したり無視したり、自分たちの都合で強引にねじ曲げたりする部分があるとはいえ、それでもアメリカには「自己批判」の伝統が息づいているのもまた事実だ。それはアメリカの素晴らしい文化であり、気風とでも呼ぶしかないようなきまじめさと結びつきあいながら、アメリカの民主主義を前進させていく力そのものとなる。
つまり、私は、アメリカ映画から、アメリカ人の途方もないきまじめさ、「自己批判の大切さ」というものも学んだ。
私の中に、「真面目」な部分があるとすれば、それはこれまで出会ってきたアメリカ映画、もしくはアメリカ小説の影響が少なからずあるはずだ。


おまけ。

誤解のないように言っておきますが、私は映画『地獄の黙示録』が大好きです。

主演のマーティン=シーンも好きだしな。

銃弾が飛び交うなか、部下にサーフィンを強要するキルゴア隊長。
確かに「こちら側」に限定した出来栄えなのかもしれないが、戦争によってぐずぐずに腐敗していく倫理と道徳を、これ以上はあり得ないないほど説得力たっぷりに描いて、アメリカ映画として白眉の傑作だと言える。
さらにおまけ。
『フルメタルジャケット』

アメリカのきまじめさと自己批判の文化が、このような映画を作りだす。


 




ハトヤマ劇場の凱旋(2009.11.24)

「いったいどうしちまったんだ? 何だって諸君は、俺たちみたいになりたいんだ?」
 〜マイケル=ムーアから日本人へ〜


「その後も彼らの大部分は何度か同様の大転換をやってのけた。インテリの中核とも言うべき多数の人々が、1935年には「王と祖国」宣言に賛成し、1937年には対独「強硬政策」を叫び、1940年には人民会議を支持し、現在は第二戦線を要求している。(略)
こうした種類のことに私は慄然たらざるを得ない。それは、客観的真実という概念そのものがこの世からなくなりかけているという感じをしばしば与えるからである」
 〜ジョージ=オーウェル『スペイン戦争回顧』〜



『花・髪切と思考の浮游空間』さんから。
数の横暴− あえて自民党と同じことをやる民主党

だから言っただろ、こうなるって。
llllll(-_-;)llllll
正直言って、こういうことは選挙前に気がついておくべきなんだ。
「失望した」とか「まだ過渡期だから」とか、民主党の迷走ぶりに驚きをかくせない人たちが多いようだけど、細かい話はわきにおいて、ぶっちゃけたところを言うと、そもそも民主党は「自民党・野党部」だったんだよ。
つーか、そういう目で眺めなおすと、すべてに説明がつくんだよ。
民主党の結党当初から、それは変わらない。
「自民党・野党部」が与党になって、そしたらいよいよ、違いがなくなった、というだけの話だ。
今日もおなじみの劇場で、だらだらやらかす政治ショーだ。
自民党がやらかすのか、それとも民主党がやらかすのか、コイズミがやらかすのか、それともハトヤマがやらかすのか。
……どういう違いがある?
これは、ある意味、非常に教訓的な内容を含んでいるんだわ。
人間がいかに「自分の内に抱えている希望」に自身の目をくらませられるか、という、内容な。
希望という名の落とし穴についての、ひとつの寓話足りえているわけだ、今回の政権交代は。

こーんなに明々白々なのに、そこに「希望」を投影するとき、私たちには見たい物以外なんも見えなくなる、という教訓。

岩鬼火山爆発!!!

YouTubeのMAD画像から。
「鳩山ブーメラン。または、内閣総理大臣の形而上的矛盾。または、おいシドロなんだよモドロあのさプリンプリンちゃんどうなったんだろな」

♪スキ、スキ、スキ、キス♪ジギル博士とハイド氏〜♪
♪今日も二役♪あなたのいない校庭で〜♪
♪アンアンアンアン♪アンモラル〜♪
(;´▽`)〜
こーんなに明白で、こーんなに教訓的だ。



おまけ。

マイケル=ムーア監督最新作『キャピタリズム マネーは踊る』の公式サイト

日本語字幕予告編あります。
個人的にいちばん驚いたのは、

ムーアはMacユーザーだった?!

インタビューのページに写っている、ムーアが手にしているノートパソコンはMacだ、という話。
まあ、当然だけどね〜。


 



シュヘラザードはなぜ語る(2009.11.21)

「男は争いあうのが生きがいでしょうけど、私たちは戦場の一部なのよ」
 〜ジェイムズ=ティプトリー=ジュニア『男達の知らない女』〜


「人生を過ごすには最悪の五百万年を通りぬけたところだ。やっと何人かの男が、女性にとっては状況が芳しくないのかもしれないと気がついた」
 〜カート=ヴォネガット『失恋者更生会』〜



そう、私は、辛い女性の物語が大好きだ。
(;^_^ A
薄幸の美女の身に、新たな不幸がとってつけたように次から次へと降りかかっていく、という、ふた昔前の邦画にあるような「辛い女性」ではなくて、才能のあるクリエイターが「女性から眺めたこの世界」というものをきっちりと丹念に描き出せば、当然このような傾向の物語になる、という意味での「辛い女性の物語」だ。

ジャファール=パナヒ『チャドルと生きる』


ルーカス=ムーディソン『リリア4エヴァー』


ダルデンヌ兄弟『ロゼッタ』


女性たちは手を携えて、この社会に風穴をあけていく。
……風穴を開けてくれ。


おまけ。

ちょっとベクトルがずれたところで「辛い女性」物語、『キャリー』


「辛い女性」と「辛い子ども」がフュージョンすると、とてつもなく辛くなるというB級ホラー映画です(本当かよ!)。


 

 



辛い女性の失われた言語(2009.11.18)

「こんな、こんな、苦しい思いをしたことは、レチアは生まれてはじめてだった! 彼女は助けを求めたのに、みはなされたのだ! あのひとはわたしたちを見すてた! ウィリアム・ブラッドショー卿は親切なひとじゃない」
 〜バージニア=ウルフ『ダロウェイ夫人』〜


「生活保護は交通事故に似ている。だれにでも巻き込まれる可能性があるが、とりわけ女性が巻き込まれやすい。だからこそ、生活保護とは女性の問題なのだ。この国の中産階級の女性の多くにとって、女性解放は大きな関心事だろう。しかし、生活保護を受けている女にとっては、まさに生存に直結した問題なのだ」
 〜ジョニー=ティルモン〜



『月刊!スピリッツ』というマンガ雑誌の創刊とともに、村上かつらセンセの連載がはじまっている。
タイトルは『淀川ベルトコンベア・ガール』だ。
村上かつらセンセのことは、この日記でなんども書いてきた。
「つらい女性」を描くのがとびきりにうまいひとなのだが、センセがこれまでかかわってきた編集部も、そして本人も、そのことにおそらく気がついていない。
女性という存在への途方もない共感力(ご本人も女性のようだが、女性が女性の辛さに共感力をいつも発揮できるというわけでもない)があるからこその、「辛い女性」。
誰かに打ち明けるほどのこともない、打ち明けたってどうにもならない、だから誰にも言えない。誰とも共有されずに、ひたすら孤独に辛い、という女性の辛さだ。
ひっそりと耐える女性の辛さを描き出すことで、紙面からわき上がってくる独特のエロティックさ、というものが彼女の作品にはあって、彼女の作品がマンガ雑誌に掲載されるたびごとに、話題になるのはいつもそのエロティックさだった。
「女性の辛さ」ではなしに。

マルクス主義マンガ評論を標榜する紙屋某氏も、村上かつらセンセのそんなところに注目していて、正直、呆れた覚えがある。

☆☆☆☆☆
村上の描く女性が、ヤヴァイ。
 「天使の噛み傷」の牛島聡美にしろ、2巻短編の「いごこちのいい場所」の堀川夕子にしろ、少し上目遣いに、淋し気な内実をかかえて、ぼくたちを見ている。
 それだけでもうズキューンとくるだろ。ふつう。
 そして、そこには、ズキズキするような欲望的シチュエーションと、文学的な感傷があればヨイ。村上の短編には、そんなものが溢れている。
☆☆☆☆☆

なのだそうだ。
「ズキズキするような欲望的シチュエーション」だと? “こんな辛い思いをするのは、はじめてだ! 彼女たちは見捨てられたのだ。紙屋某氏は親切な人じゃない!”

世の男どもがこんな有り様だから、女性の辛さはどこまでも辛いままになるのだ。

村上作品を読んで、「ズキューンとくるだろう。ふつう」などと言うような人は、地面に突っ伏しておいおいと泣くような、なにかそんな目にあえばいい。
こんなものが「ふつう」なのだとしたら、この「ふつう」など、塩の柱になってしまえばいい。
ともかく。
「そんなものが溢れている」とされた村上かつらセンセは、実にどうでもいいような「そんなものが溢れている」作品をこれからも読者のために描く人とされた。
これは私のまったくの推測だが、おそらく、例の『編集王』的ないきさつが、きっとあったにちがいない。
人気サンデー漫画家「美少女を描けない作家はマンガで食っていけなくなる」お色気漫画しか書けないというのは小学館を舞台にしたと言われる傑作漫画「編集王」のメインテーマになっていましたね…。

しかし、誰が何と言おうが---編集者が言おうが、読者アンケートが言おうが、マルクス主義マンガ評論家が言おうが、神様が言おうが---、彼女のマンガは「そんなものが溢れて」などいない。
性を描くのはいい。パンチラもかまわない。だけど、性に興味津々だが経験も知識もまったくないにひとしい中学生たちをひっかけるマンガ、などというものを、彼女は描いているわけではない。
そして、彼女ほどのひとが「ズキューンとくる」無残なマンガを描く必要もまったくない、と私は言い切る。

しかし。
村上センセの本当の才能、素晴らしい能力、つまり辛い女性への共感力は、ないものとされた。
他の作家たちとは少しだけ毛色の違う切ないエロを売る人とされた。
もちろん、そんなことでうまくいくはずがない。
そして実際、商業的に、もうひとつうまくいかなかった。
このうまくいかなかった、という事実が、「ズキズキするような欲望的シチュエーション」を売りにする漫画家ではないことを端的に物語っている。
すると今度は、誰の助言か押し付けか、「ちょっとよい話」を描く人として、軌道修正してマンガを描くようになった。
本当に、どうなっているのか。
「あなたは、女性の辛さを描けばいいのではないか。あなたの才能は、そこにあるのだから」
と言う編集者は、ただのひとりもいないのか。
今度の新連載『淀川ベルトコンベア・ガール』は、まだ連載開始から3回目だ。
私は、今のところ、恐る恐る読んでいる。
16歳の働く女の子が主人公だ。
家庭の事情で、主人公の少女は高校へは行かず、町工場で働く日々だ。
かなり歳の離れた女性たちと肩を並べて働く少女は、誰にも言えないひとつの切望を抱いている。

「友だちが欲しい」

自分にとって、なによりも大切だと心から思えるような、そんな友だちが欲しい。そしてできうることなら、その友だちにとっても、自分という人間がかけがえのない存在であって欲しい。
彼女の日常における、関係のできにくさ、維持のしにくさ、という揺るがしようのない状況のただ中で、ひたすら受け身のまま、16歳の少女は友だちを切望する。
友だちが欲しい、とにもかくにも、友だちが欲しい。
「友だちが欲しい」という高架下での少女の叫びは、受け止める相手もなく、列車が線路を走るごうごうという音にかき消されながら、どこかへと消えていく。

 

 



これより先、怪物領域(2009.11.15)

「気づいたのさ これもまた いつもの滑稽な夢にすぎなかったことに
 ここは食うか食われるかの国 強きが弱きをくじくところ」
 〜ラングストン=ヒューズ〜


「カレリリアのジャーナリズムは、我々人間が非道な奴隷所有者であり、無知なロボットを非合法に搾取し、苦しめていると飽きることなく情宣を続けています。(略)
たいていの電子頭脳は固い。だが、連続した休みもない労働、入り組んだ計算、それにつきものの悪態やタチの悪い冗談、こういったことに生まれつき過度に神経の細い機械は耐え忍ばなければならないのだ」
 〜スタニスワフ=レム『泰平ヨンの航星日記』〜



『大脇道場』さんから。
ケンカを売るつもりじゃないが、植草さん、政権交代は一体は何のためにあったのでしょうか

まあ、ぶっちゃけたところを言ってしまうと、あれですわ、

「前制権から何も変わらないためにあったんだよね、今回の政権交代は」

いや、もう、まじ。
げっそりするほど本当のことなんだ。
実にけったくそ悪い、しかし、

まさしく、そのための二大政党なのだから。

民主党の言う政治主導の国会改革とは、実にわかりやすく「国会の機能の空洞化」でしかなく、そのことこそが、新しく発足した「政治改革推進本部」の「まずは」取り組む課題だというわけだ。『花・髪切と思考の浮游空間』さんから、
国会改革というより国会軽視

この手の“改革”には、熱心であり続けるだろう。前政権以上に。
議会制民主主義から民主主義をとりはらって、政治主導の議会制となる。
議論は軽視され、審議は徹底的に圧縮される。国会の機能から民主主義をとりはらえばとりはらうほど、議会は効率良く機能し、提案は法案となって、あっという間に可決されていくようにはなるだろう。
昨日あれを改革したと思ったら、今日はこれを改革する。明日もまた改革だ。それを民主党もしくは政府の「成果」なのだと胸を張って主張すれば、国民は「なるほど」「さすがだ」「実行力だ」と評価するのだろう。
「成果」「効率」そして「勝利」。誰の勝利なのかと言えば、民主党の勝利だ。ハトヤマの勝利だ。「では民主党とはいったいなんなのか」と、問うこともない。問いの数だけ効率が下がるし、自分たちの勉強不足を痛感するのもおもしろくないからね。
民主党と自分たちを同一視して、おのおのの雑多な夢だけをたくす。
……日本という国の正体は、結局はそれだけのことでしかないのではないか。民主党だ、自民党だと言う前に。
日本という国の、経済の成り立ちから庶民の暮しの細部までが、会社の都合、もしくは取引相手の都合というもので機能していく、政治もまたそうだ。
共同体の利益に関心が向かない。互いの会社同士で「そこんところをなんとかお願いしますよ」と頭を下げて、頭を下げられた側はそこんとこをちょっとなんとかする。無理を聞く。具体的には、互いの会社のために脱法行為を行う、利益のために嘘を積み重ねる。
会社の都合、というものを取り払えば、ほとんど何も残らない。会社を退職したら、一日をどう過ごしていいかもわからない。
そんなありさまだから、民主党のネオリベまるだしの政策をさらに右側からの立場で批判しようとする大きな野党(笑)が
民主党は社会主義的だ

などという、救いようのない妄言を吐くことにもなる。
民主党が社会主義!なら、スウェーデンやフィンランドやベルギーはもちろん、ドイツやフランスやカナダまで社会主義だ。
(;^-^ゞ
このとてつもない不勉強ぶりはどういうことか。

“社会主義みたい”というのは、まー、こういうのを言います。

しかしあれだよな、自民党の総裁は、資本主義とはなにか、つーこともなんもわかってないということだよな、きっと。
どんだけモノを知らないのか。
こわいわ、この国が。



 



地球人のための協奏曲(2009.11.12)

「彼らは細かいことまで、わたしに質問した。おまえは、雇い主や政府が、失業した労働者に保険金を払うべきだと思っているのか? 黒人と白人とは、完全に平等になるべきだと信じているのか? 労働者階級に属する者が、工場や鉱山、それに政府まで動かせると思っているのか? そもそも上下関係などいらないと考えているのか、と。そこでわたしは、自分はそうしたことをすべて信じている、と答えた。いや、それ以上のことを信じているのだと」
 〜アンジェロ=ハーンドン〜


「音楽とは君自身の経験であり、君の思想であり、知恵なのだ。もし君が、まことの生活をおくらなければ、君の楽器は真実の響きをなにも持たないだろう」
  〜チャーリー=パーカー〜



最近は、ショスタコーヴィチか、バルトークの曲ばかり聴いている。
自民党野党部だった民主党が、はれて自民党与党部(ん?)となり、その政党としての本質が、国会の審議のなりゆきとともに地金をあらわにし始めるという予想通りの進行に、じんましんが出るほどの不快さを覚える。そして、その不快さから逃避するために、音楽を聴く。
(^_^;)
ハトヤマなにがしの国会での所信表明からして、“市場原理主義をいくぶんか後退させたネオリベ”というゲッソリする代物で、想定通りとはいえ、こんなものに世間の人々が狂喜するという事実が、私の神経をまいらせるのだ。
コイズミ某と、なにがどう違うのか。
一部の特権階級に権力と富を集中させればさせるほど、我が家の家計にも日本という国家にも、きっとよい効果が生まれる、という奇っ怪な理屈に支えられた

毎度お馴染のカイカクが続く。

手段は“いつもの”強行採決だ。

コイズミはだめだった。これははっきりしている。だから、コイズミで果たせなかった夢を、ハトヤマにたくす。または、ハシモトにたくす。
では、たくした夢とは何か。それはもう、あれもこれもがすべて国民の夢、ハシモトやハトヤマに対する期待だ。
国民ひとりひとりが自分たちの内部に抱いている、手前勝手なイメージ、どうでもいいような細部にこだわり続けることで確信できるバラ色の明日、目覚めていればけっして見ることも信じることもできない架空の約束、そのたもろもろだ。

♪あんな夢こんな夢いっぱいあるけど〜♪
♪みんなみんなみんなっ かなえてくれる♪
♪政治主導でかなえてくれる♪

ああ、だめだ。正気を保つのが、難しい。
今日もバルトークを聴こう。
バルトークを最初に聴いたのは中学生くらいのときで、そのときは
「こんなものは善し悪し以前に、音楽ですらねえ!」
と思ったものだった。
しかし、セルとクリープランドオーケストラのコンビの『管弦楽のための協奏曲』を聴いて(村上春樹の新刊で有名になったヤナーチェクの『シンフォニエッタ』とカップリングになっている盤)、バルトークの評価は180度変わった。
バルトークの『管弦楽のための協奏曲』第一楽章。指揮はブーレーズ。


20世紀の世界---少なくても西洋文化圏---がどういう場所だったのか、ショスタコーヴィチとはまた違った角度から、見事に表現しきってみせた。バルトークはそういう人なのだ、と、……まあ、どう背伸びしても中学生のころの私にはわからんわなあ。
(^_^;)

バルトークとショスタコービィチはそれそれのやり方で、20世紀以降の人類が、この広大な宇宙のどこに位置し、どちらに進んでいるかを教えてくれているのだ。

最終楽章。


曲全体に行き渡るような透明感、その透明感にぴったりと寄り添いながら、何かの拍子に実体化する暴力の臭い。
それまでの日常の土台であったはずの地域共同体の歴史も、文化も、人と人の結びつきも、人の心のあり方すら、すべて「過去」のひと言のもとにかたづけられていく。これまでのことは「過去」だ。機械化、都市化……発展と成長のためには、過去は切り捨てられなければならないものだ。そのようにして、「過去」とはまったく切り離されたところから始まる、巨大で、清潔で、まぶしく、人工的で、24時間365日休むことなく、ごうごうと音をたてて稼働し続ける、まったく新しい文明社会が現出する。
私は、バルトークの管弦四重奏曲5番やピアノ協奏曲の3番をある一定以上の音量で聴くと、いつも涙が止まらなくなる。
それは、感動の涙というわけではない。それはまるで、とてつもなく深遠な問いに答える科学的真理に出くわしたときのような、鳥肌が立つような、ある種の畏怖の念だ。

管弦四重奏曲5番。


 



林檎男(2009.11.9)

「マイクロソフトの製品は、これだけの年月とこれだけのユーザー数を抱え、おそらく莫大な労力をかけてつくりながら、どうしてこれほどわかりにくいメニュー構成をつくるのか不思議に思えることが多々あります」
 〜『ウェブデザインVol.10』〜


「マイクロソフトは完璧な「社員不在の企業」になろうとしているのだ。部門の外部委託、契約工場、フリー労働者のジグソーパズルである。ゲイツはすでに正社員の3分の1を派遣社員に切り替え、CD-ROMやインターネット商品が開発されるインタラクティブ・メディア部門では、労働者の半数は外部の「給与支払い業者」に雇われている。この業者は、プリンターのカートリッジを補充するように、税金のかからない労働者を補給してくれる」
 〜ナオミ=クライン『ブランドなんかいらない』〜



人間を抑圧し、混乱させ、ユーザーを泥棒扱いしておきながらユーザー情報を盗み見する、黒い魔ソフトの運動図OSの大失態。『がんばれゲイツ君』から、
黒い魔ソフトの最新OS『運動図7』イン・フジテレビ!

(ノ`m´)ノ ~┻━┻

運動図は欠陥商品というだけでなく、人の心に度外れた負担を強いる、毒のおもちゃだ。
運動図のデスクトップ画面を眺めただけで、私の神経はずたずたになる。
「無理です、いやです、かんべんしてください、こんな非人間的な代物には近づきたくもありません」
私のハートはNOと言う。
どうして私の周囲の人たちは平気なんだろう。あの汚らしいMSフォントひとつとったって、とても耐えられるものではないだろうに。冗談でも嫌がらせでも悪口でも何でもなく、心からそう思う。
私がナイーブすぎるのだろうか。
心の底からわき上がってくる、激烈な拒否反応!


こんなパソコンはにせものだっ! 寒けがする! 林檎にこだわりのある人間の激しい拒絶に、周囲の人間はひきまくり、の図。


おまけ。

この本家『運動図』の現状に、とある日本人が立ち上がった。
その名も

運動図777

わはは!
私は、こっちのほうがいいや!

 

 



ベントラーベントラー・ベントラー(2009.11.2)

「良識ある一外星人として大変嘆かわしいです」
 〜野村亮馬『ベントラーベントラー』〜


「「…「先生を獲りに」か…本当に大丈夫かしらススムに火星の教育を受けさせていて」(略)
「一度捕まえた先生は逃げるのがうまくなるな」」
 〜吉田戦車『火星ルンバ』〜


「わたしたちの、このサイエンス・フィクションの彫像がなにを行う必要があるか、おわかりでしょうか。サイエンス・フィクションはその鷹の目を、自分自身を見るために用いる必要があるのです。思慮深い入念なまなざしで。批判精神をこめたまなざしで」
 〜アーシュラ=K=グウィン『石斧とジャコウウシ』〜



車の中の何かが何かして、車内がオイルの海と化した。車屋さんに修理に出して、代車を貸してもらったら、地下駐車場のコンクリ製の柱に突っ込んで、サイドミラーを叩き割った。
そんな私の脳裏をよぎるのは、「あわわ、これナンボかかるんかなあ」だけだ。
……みんな、わしが車を走らせるときは、気をつけろよ。
(;^-^ゞ
どうにかこうにか、駐車場の指定領域に車を停車し、用を済ませてからがまた大変だ。
エレベーターへ飛び乗ろうとする人を助けようとして、「開く」ボタンを押したつもりが「閉じる」ボタンを押してしまい、

助けるつもりだった人をドアで挟んでしまった。

「すみません、ごめんなさい、すみません、ごめんなさい」
エレベーターの「開く」ボタンと「閉じる」ボタンを、90パーセント以上の確率で押し間違える私。またいつか間違えるだろう。
私が、いかに地球文明に適していない生物であるかを、痛感する次第だ。
もしかしたら私は、地球人じゃないんじゃア……。
『ベントラーベントラー』というSFマンガの2巻を読んでいる。タイトルの「ベントラーベントラー」とは、「外星人のことは外星人に聞け」という略語だ。
次から次へと地球という小さな星の、さらにちっぽけな日本という島国にいきなり降り立つ外星人。
彼らの目的は何か?
侵略か、観光か、不時着か、僻地調査か、冷やかしか。
道徳観念も時間感覚すら大きく隔たりのあるあちら側とこちら側で、なんとかコミュニケーションを成立させようというせつない試み。
いいなあ。
本当に来ないだろうか、外星人。
ほんで、

企業が自分たちの給料を下げたり解雇したり、自国の政府が社会保障を後退させるときっぱり約束するなら、自分たちが支払う税金で企業を救済してもよい

と主張する国民に、モノの道理をいちから説いてもらうの!!
アーサー=C=クラークの『幼年期の終わり』みたいに、さ。
つーか、日本国民は、どうなっちゃったんですかね?
『非国民通信』さんから
労働者を犠牲にして会社を守るということ

☆☆☆☆☆☆
決められたとおりの賃金を支払わなければならないのと同様に、決められたとおりの年金もまた支払われなければならない、当たり前のことです。それを怠るのは違法な不払いでしかありません。しかし、約束された額の年金を支払うことには「国民の理解が得られない」わけです。その反対に、労働者(退職者)の合意なく一方的に年金支給額を引き下げることには国民の理解がある、そう考えられているのでしょうか。しかも、この一方的な切り下げ(=違法行為)を、法律を歪めることで可能にしようというのですから大問題のはず、それを国民が許容するとしたら、やはりこの美しい国の住民は投資家の目線や経営者の目線でしか物事を考えられない、労働者の目線では決して物事を考えられないのかも知れません。
☆☆☆☆☆☆

外星人とは言わず、せめてスウェーデン人に話を聞くくらいいいんじゃないかなあ。


おまけ。

ヤングサンデー(今は廃刊)という週間漫画雑誌をめくりながら、わたし、漫画家・佐藤秀峰せんせの漫画『海猿』第1話のパンチラシーンに、個人的に猛烈な違和感を感じ、その強烈さは不快感と言ってもよいくらいのもので、その違和感のために第2話以降を読んだのは数年後になった、という経験があるんです。
が、このたび、センセご自身のWeb日記にてぶちまけ話が披露されておりました。(『佐藤秀峰on Web』から制作日記 日付10月28日より)

ああ、そういういきさつ!……例によって、編集者とケンカしてたんですね。
(^_^;)
しかし、

「でも僕はますます「商業主義なんてくだらない」という気持ちになってしまった」
から↓
「だったら、あえて下品でくだらなく振る舞ってやろうと思いまして、「海猿」の第1話はパンチラが満載」

という行動に走るとは、らしいちゅうか、根っからの反逆者なんですね。
それにつけても、私の感受性の精度の高さよ! 漫画家と編集者のやりとり、の内容なんて知りようがないから、解答にはたどりつけなかったにしても、「これは、なにかがおかしい。大きく間違った形で、得体のしれない悪意が働いている」とは感じ取ることが出来た。そういう自分が、ちょっと誇らしい。

 

 



プロバタリアンたちの星(2009.10.31)

「中国は1980年代に市場経済化します。国営企業ではない株式会社企業をつくるとなると、どこを私的企業にし、どこを公企業として残すかが大論争になります。(略)
ところが、どこが金もうけをしてもいい領域か、どこが金もうけをしてはいけない領域かがわからなくなってしまいました。軍隊も金もうけをはじめ、いろいろな事業をはじめたのです。財政部もホテルを経営したり、建設部もホテルを経営したり、金もうけに走っていきました。
大学もそれまでは国からお金が出て、無料で教育をしていました。ところが、そこに市場原理を入れて、授業料を一部とるようにして、予算も来るようにしました。そのうちに大学でも金もうけをしなくてはいけないということで、日本の大学のような出版会をつくり、教科書を売りはじめたのです。さらに教室を企業に貸しはじめました。体育施設もレンタル料をとって貸すようになりました。ホテルも経営しはじめました。
こういうことをしてはいけないのです。市場社会では、金もうけをしてもいい領域と、金もうけをしてはいけない領域をわける必要があるのです」
 〜神野直彦『財政のしくみがわかる本 岩波ジュニア新書』〜


「富をかき集めるもう一つの源泉は、労働力の超過搾取、とりわけ農村部から移住してきた若年女性労働者に対する超過搾取から生じている。中国の賃金水準はきわめて低く、労働条件の規制は不十分で、専制的かつ搾取的である。そのひどさときたら、マルクスが大昔に、産業革命の初期段階のイギリスにおける工場労働や家内労動の過酷な状況を痛烈に記述する中で集めた叙述をも恥じ入らせるほどである」
 〜デヴィッド=ハーヴェイ『新自由主義』〜


「階級の境界線ははっきりと固定され、富める者と貧しい者の差はますます広がっていった。1630年、マサチューセッツ湾植民地が開かれたときの初代総督ジョン=ウィンスロップは、「いかなる時代でも、ある者は富み、ある者は貧しくあらねばならない」と述べたが……」
 〜ハワード=ジン『学校では教えてくれないアメリカの歴史』〜



『ブレードランナー』 まであと9年。


不破哲三氏の『激動の世界はどこに向かうか〜日中理論会談の報告』をデヴィッド=ハーヴェイの『新自由主義〜その歴史的展開と現在』と併読(こちらは再読)するような形で、少しずつ読んでいる。
『激動の世界はどこに向かうか〜日中理論会談の報告』は、2009年4月に中国北京で行われたという「日本共産党と中国共産党との理論会談の記録」だ。
市場の動向にも銀行の仕組みにもまったく興味がない私が、この二冊を購入したのは、中国の急激な経済成長をどうとらえるべきか、しっかりと考えてみたかったからだ。
……というのは嘘で、本当は経済成長なんて個人的にはどうでもいい。中国における市場経済のゆくえ、都市計画、その他もろもろの急速な発展、というものにもまったく興味がない。そもそも私は、「個人の自由は、市場と商取引の自由により保障される」などとは、一瞬たりとも思ったこともない。つまり“発展”というものを信じていないのだ。
私が興味を持つのは、中国という国家が、市場自由主義という手段を通じて成し遂げていく「強大な権力機構」と「一部の特権階級への富の異常な集中」を「健全な発展」だと言い張る醜悪な姿そのものだ。
私の目をとおして眺めた中国は、議論の余地もなく

新自由主義思想に裏打ちされた独裁のプロセス、

という道程を、ひたすら前を向いて、突き進んでいる。
現状もその方向性も、だ。
中国の経済改革の進展と、それとともに増大する途方もない経済格差、不平等の拡大を「過渡期」のひとことでかたずけてしまう人々がいるのは、私を心から驚かせる。
過渡期といえば、確かに過渡期ではあるだろう。しかし、何がどう過渡期なのか。
「働ける貧困層」は新自由主義制度の副産物としたタケナカやコイズミと、この「過渡期」論は、どこが違うのか。
国有企業や銀行を次々に民営化しながら、それでもネッコの部分では政府が市場をコントロールしているのだから、市場の暴走はぎりぎりのところで食い止めることができるし、諸問題にも国家レベルで逐次対応することが中国の場合は可能だ。そこが、市場原理主義に走ったアメリカと違うところだ。だから、中国は、さまざまな矛盾が増大しつつも基本的には正しい道を歩んでいる、という理屈だ。
「真正な社会主義」というものがあるとして、その「真正な社会主義」にたどり着くために、どうしても通らなければならないプロセスが「新自由主義」と「市場開放」なのだ、ということなのか。

「みんなもっと仲良く、互いに支え合って暮そうよ。そのほうがきっと楽しいよ」

つまり、相互扶助の精神があってこその社会主義だと、私はこれまで思っていた。というか、今でもそう思っている。生産手段の社会化、とかなんとかは、「みんなが仲良く支え合って暮ら」していける共同体を建設するための、単なる手段だ……私、なんか間違ってます?
「労働者の代表」、「我らの代表」を気取る連中が、契約という名の見えないムチで(場合によっては見えるムチで)、貧乏人や小作人をしばきまくるのは、いったいなんの「過渡期」なのか。
……それとも、栄光と成功の中華人民共和国へ向かう「過渡期」時代が終わると、途方もなく強化された独占権力は、自らを解体するとでも? 本当に? 私には信じられないし、信じたとしても、今、この瞬間、虐げられている人々はどうなるのか?
つーか、腐っても曲がっても仮にも「共産主義」を名乗る国家が階級格差を激化させているって、どゆこと? 地球人は東も西もすっかり狂っている、と仮定すれば、説明はつくわけだが。……世界が狂ってるのか、私の頭がいかれてるのか。
私は、もう十代のころからずっと思ってるんだけど、あれじゃないかなあ、

「成長」とか「所有」とか「豊かさ」といったものへの憧憬を手放さない限り、社会主義システムは無理じゃないかなあ。

「成長しない社会」に、自分たちがめざすべき明日がある、というふうに……地球人が目標設定するとは、ちょっと考えにくいか。
(^_^;)
……まあ、それ以前に、日本人の多くが、

投資と投機の違いもわかっとらんような気が。(私もそのうちのひとり!)

民間企業が利潤を追求すればするほど、世の中も個人の暮しも良くなる、なんてマジで信じている人、あなたの周りにもいませんか? 株を買うのも、会社を育てるためじゃない、自分のもうけ、そればっか。
(^_^;)
話は少しずれるけれど、最近、新版の映画『蟹工船』を観たんだけど、これが、新自由主義的発想まるだし、というか、もうほとんど某宗教団体の現世利益論みたいな感じで、腰が抜けるほどぶったまげたことがある。

あらすじは原作通りなのに、中身がネオコンなのよ、新しい『蟹工船』は!

うぎゃあああ! どういうこと? 私は恐ろしい。
みんな、社会主義も市場原理主義も社会民主主義も民主党政権もコイズミ政権も公共財の概念も民営化も『蟹工船』も新自由主義も某学会のありがたい教えも般若心境も味噌も糞も、目隠しして口に入れたら、どれも同じ味に感じてるんじゃあ……。




 



泰平ヨンのSFの旅路(2009.10.28)

「ファンタジーを嫌う人間が、科学に対しても同じように退屈や嫌悪感を抱くことがしばしばある。こういう人間は、ホビットも恒星状天体も好きではない。どうも相性が悪いのだ。複雑なこと、遠く隔たったものはどうでもよいのだ。ファンタジーと科学とのあいだになんらかの関係があるとすれば、それはきっと根本的に審美的なものであろう」
 〜アーシュラ=K=ル=グウィン『夜の言葉』〜


「最近は、きみらの書くものしか読まない。きみらだけだよ、いま現実にどんなものすごい変化が起こっているかを語ってくれるのは。きみらのようなキじるしでなくては、人生は宇宙の旅、それも短い旅じゃなく、何十億年もつづく旅だ、なんてことはわからない。きみらのように度胸のいい連中でなければ、未来をほんとうに気にかけたり、機械が人間をどう変えるか、戦争が人間をどう変えるか、大都市が人間をどう変えるか、でっかく単純な思想が人間をどう変えるか、とてつもない誤解や失敗や事故や災害が人間をどう変えるか、なんてことに注目したりはしない」
 〜カート=ヴォネガット『ローズウォーターさんあなたに神のお恵みを』〜


「そこでインディアンたちは逃げた。コロンブスとスペイン人たちは犬をけしかけながら追いかけてきて、彼らを殺した。捕虜にした者は縛り首にするか、火あぶりにした。銃と刀剣、甲冑と馬で武装したスペイン人にはとても太刀打ちできるものではなく、ほどなくアラワク族は毒草で、集団自決しはじめた 」
 〜ハワード=ジン『学校では教えてくれないアメリカの歴史』〜



ずっしりと重く、読み応えがあり、難解さと格闘するように読み進めるSF小説を書くことで有名(苦笑)なスタニスワフ=レム『泰平ヨンの航星日記』の改訳版を読んでいる。
この『泰平ヨンの航星日記』は、ジャンルで言えば、ユーモア小説の部類に入るだろう。意外だったが、楽しい。

ポーランド人が書いた、大人向けの『ドラえもん』といったオモムキだ。

もちろん、レムを馬鹿にしているわけではなくて、皆が思っている以上に『ドラえもん』は傑作だ、というだけのことだ。
感受性豊かな小さな人たちが最初に出会うSFとして、『ドラえもん』はまさに王道だ。寓意があり、物語の足場は子どもたちにとって身近で、なおかつ、想像もつかぬ驚異の別世界の扉がすぐそこに開いている。問いかけ、創意工夫、失敗。
人間共同体における、「まかり通る倫理」「軍隊的な価値観」「正当な目的」「どこからか流れてきては去ってゆく時間」「宿命としての競争」というものへの、意表をつく反抗。人間の変化への、途方もないまなざし。思わずうなってしまうような辛辣さ。
『泰平ヨンの航星日記』は『ドラえもん』と違って、大人が読む読み物だから、最終的には、さらに遠い場所へとたどり着く。
極めて鋭く、知的な、ずしりとした手応えを持つドタバタ喜劇だ。

--☆

デジタルリマスター版と銘打って発売された『ソルジャー・ブルー』という映画をDVDで観た。これは、逃げも隠れもできないほどにわかりやすく、

西部劇版『もののけ姫』だった。

ラストは、そこから、『デビルマン』の「牧村家の惨劇」へとなだれ込みます。

--☆

マンガ雑誌『月刊アフタヌーン』最新刊に掲載されている市川春子センセの読み切り『日下兄弟』がちょっとおすすめ。

高野文子センセふうの画でシオドア=スタージョンをやったような感じ。

タンスのネジが突然、ぴゅっと逃げ出したあげく、少しずつ変化していくところなんかが、スタージョンです。

あ、あと、『爆音列島』のタカシくん。『タクシードライバー』のトラヴィスのように生きたいって、どゆこと? 聞いたら、ポール=シュレイダーが泣くぜ。マンガの登場人物に、噛んで含めるように説教するのはやなんだけど、あれは、「トラヴィスのように生きちゃだめだよ」という映画なんだよ。まあ、細かく言えば色々あるんだが、今はその点だけ。


おまけ。

レムの原作をタルコフスキー大先生が映画化した『惑星ソラリス』




 



朝三暮四(2009.10.25)

「株式市場は大規模なリストラが発表されるたびに高騰し、労働者の昇給のニュースでかなり落ち込む。いまの自由市場が発するメッセージはこうだ。労働環境がよくなることは、ビジネスにとっては悪いこと。それは「経済」にとっても悪く、どんなことをしても避けなければならない。このやり方は記録的な利益を短期間に生み出したが……」
 〜ナオミ=クライン『ブランドなんかいらない』〜


「何といっても新自由主義的な意味での自由の30年間は、狭い意味での資本家階級の権力を回復させただけでなく、エネルギー、メディア、製薬、交通運輸、小売業(たとえばウォルマート)の各分野で企業権力の巨大な集中をもたらしたからである。ブッシュ大統領が人類の最大の願望とまで宣言した市場の自由は、企業の独占権力とコカコーラを世界のすみずみにまで拡げるための便利な手段に他ならないことが明らかになった
 〜デヴィッド=ハーヴェイ『新自由主義』〜


「人類初めて、私たちは過剰な財を享受している。地球はその重みに耐えかねて、ほとんどくずおれんばかりだ。供給可能な財は人類の生存に必要な量を千倍も上回っている。(略)
地球上では、十歳未満の子どもが七秒に一人の割合で餓死している」
 〜ジャン=ジグレール『私物化される世界』〜



生活保護の母子加算が「復活したら、息子とおすしを食べたい。ずっと食費も削ってきたから」というあるお母さんの発言に、
「生活保護受けている人間がおすしなどというぜいたくは許せん!」と非難する人々。

ひええ……。こういうのを「冷酷無比」つーんじゃなかったっけ。
「息子とおすしを食べたい」などというささかきわまりない願いくらい、気持ちよくかなえさせてやれよ。
わしら、なんのためにゼイキンおさめてるんだよ。無駄を省いて財政再建するためか? まったく信じられないぜ。
みんな、神野教授のお話を、よおく聞いたほうがいいよ。
気まぐれ通信さんから。

☆☆☆☆☆☆☆
 神野 正直なところ、今の国民が言っていることはよく分からない。メディアを含めて、「増税をするなら歳出を削減しろ」と言う。普通、公共サービスは国民の生活を支えるのに必要なものでしょう。そう考えると、多くの人は「必要な公共サービスを減らしてくれれば、負担増に応じる」と言っていることになる。
―― …まあ、そういうことになりますね。
 神野 それからさ、「財政再建のための増税に応じる」と言う人も多い。財政再建なんだから、サービスは増えませんよね。つまり、「サービスが減るか、同じだったら負担増に応じてもいいけど、サービスを増やすのは嫌だ」と言っていることになる。こういう考え方は普通あり得ない(笑)。どうなっているのか分からない。端的に言ってしまえば、民主主義が機能していない。
☆☆☆☆☆☆☆

「小遣いを減らすのなら、食費も削れや!」とママさんに駄々こねる子どもみたいなもんだよな。
「いっそ、学費も削って、オレを高校にやったり、給食食わせたりするのもやめろや!」とか言ってるのと同じ。
(^_^;)

子どもがそんなこと言い出したら、普通の感覚のママさんは仰天して、子どもを病院へ連れていくよね。
(^_^;)
どうしてこんな狂った主張を自らに許しているのか、というと、結局、

「自分の小遣い」の増減しか頭にないんだよ。

この腐った根性! こんなものを「自由」とかぬかす、ずうずうしさ!


おまけ。

ショスタコーヴィチ交響曲8番。ムラヴィンスキー大先生の指揮で。


切り捨てるか祭りあげるかの二者択一。全肯定されていく欺瞞に満ちた構造改革。奇妙に平均化された陶酔感によって支えられる社会。どうしようもなく芝居がかった指針表明。希望という名の、大衆の無抵抗。
「かりそめの平和」「かりそめの勝利」「かりそめの改革」「かりそめの明日」……ショスタコーヴィッチにはそのすべてがある。彼の音楽によって、私の感受性はより研ぎ澄まされ、

今日という一日をより不快に生きていくことが可能となる。
(^_^;)
吹き鳴らされるトランペットの、滑稽なほどにしらじらしい勇壮さはどうだぁ(3分40秒あたり)! こんな時代に、ワクワクと愉快に、楽しく過ごすなんて、私にはできません。


おまけ2。

「国際女性メディア基金が2009年の生涯功績賞にアミラ=ハスを選出」したそうです。
『デモクラシーナウ ジャパン』から
「ベルゲン=ベルゼンの日記 1944-45」 アミラ・ハスが問う母の沈黙
を再度紹介しておきます。


 



10000000アクセス(2009.10.22)

「資本主義のあらゆる活動は、原始宗教の儀式と同様、野蛮で、手が込んでいて、不必要で彼にとっては無意味だったからである。貪欲と怠惰と嫉妬羨望が人間のあらゆる行動を左右すると考えられている資本主義者たちの儀式においては、非人間的な行為すらありきたりのことになってしまっている。シェヴェックはその醜悪さ、卑小さを軽蔑を込めて、冷ややかに眺めた」
   〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』 〜


「彼らは意識を持つようにならない限り決して反逆しないであろうし、また、反逆した後でなければ意識は持てないのである」
  〜ジョージ=オーウェル『1984年』 〜



日本の労働者とその家族の、日本の労働者とその家族による、日本の労働者とその家族への貴重なご意見集。……って、なにこれ?
いやあ、すごい。

「家族が病気だからって会社を休むようなやつぁ、他人に迷惑をかけても平気な非国民やろうじゃあ」とかなんとか。

「普通休みませんよ」
風邪をひいた妻の看病のために休むのは無責任な馬鹿のすることです」
「『風邪』くらいで、しかも「本人」でもないのに、仕事を休めだと?!」
「私の会社でもそんな人はいませんし、いたらヒキますね」
たかが妻の病気で休むような男の人を同僚としては尊敬できないしもしも上司なら軽蔑します」
「大人なら一日放って置かれても、まず死にはしません
「この質問はありえないと思います」

その他もろもろ。
なんだろうなあ。
労働者自身による自己家畜化つーより、むしろ

セルフ強制労働キャンプみたいなもんだよねヨーヘイくん?


(^_^;)
「大人なら一日放って置いても、まずは死にはしません」
って、死ななきゃそんでいいのかよ。どんだけ冷酷なんだ。感心するわ。


--☆---

アクセスカウンターが10000000を越えておりました。

みなみなさま、ご来場ありがとうございます。
これからもよろしくお願いいたします。



 



革命プロパガンダの敗北(2009.10.20)

「彼らには相手の立場でものを考える能力がまったく欠けている」
  〜 藤子=F=不二雄『ミノタウロスの皿』〜


「われわれがすべて同じように考えるべきだ、というのはよくない。
競馬が成立するのは意見の違いがあるからだ」
  〜マーク=トウェイン〜


「芸術とはわれわれに真理を悟らせてくれる嘘である」
  〜パブロ=ピカソ〜



『ロシア革命アニメーション・コンプリートDVD-BOX』という4枚組のDVDセットを購入。「ロシア・アヴァンギャルドからプロパガンダへ」というサブタイトルがついている。
ソ連邦という今はなき社会主義国家の内部で製作された政治プロパガンダを目的としたアニメーションを、4枚組のDVD-BOXにしたものらしい。Amazonで27パーセントびきでも9235円という値段だ。
4枚のDVDにはそれぞれ『1、アメリカ帝国主義』、『2、ファシスト野蛮人』、『3、資本主義者のサメども』、『4、輝かしき未来、共産主義』というテーマに別れている。
“コンプリート”というからには、ソ連における社会主義体制のプロパガンダ・アニメーションの全体像を、それなりに俯瞰したような形になっているのだろうか。
とてもDVD4枚組にはおさまらないとは想像するのだが。
だが、娯楽という意味においてはもちろん、プロパガンダの出来栄え、という意味においても、これではアメリカの足下にも及んでいない、という短編アニメーションが(タラソフやアタマーノフらの一部の例外を除いて)ひたすら続く、といった内容を、どこまで続けても出費がかさむだけだ、という気もする。
早い話が、きわめて凡庸で退屈なのだ。

つーか、こんなものに1万円も出すなんて、物好きにもほどがある、と自分で思う。
(;^-^ゞ
プロパガンダ映画なんて面白いわけがないじゃないか、と充分予測しつつ購入したのだから、さらに始末に悪い。悪食にもほどがある。
しかし、ほんとうに退屈だ。高圧的で、教条的で、バカげていて、図々しく、まじめで、陰りひとつないけれども取るに足らない言葉を力強く連呼し、ソ連が導く世界の労働者たちの勝利で終わる。
なんなんだ、これは。
かなり背伸びをするような形ではあったけれども、いっときはアメリカ合衆国と肩を並べる大国と呼ばれたソ連という国は、少なくともプロパガンダ映画においては、アメリカに太刀打ちできる状態ではなかった、という事実を、DVD4枚も観て、ただ確認した。
しかし、アタマーノフやタラソフらの作品は、この「愚作集」にあって、一味もふた味も違う。
ウラジミール=タラソフの『射撃場』という短編アニメの前半部分をYou Tubeに見つけたので、ご紹介しておく。
これはすごいですよ。

後半はさらにすさまじい展開が待っている。
この作品の内容を言葉にして説明しようとすると、「資本主義というシステムの性質上、そのシステムの内側では、人間は好む好まざるに関わらず徐々に自らが商品と化していく」……と、ただそれだけのことになってしまう。
ウラジミール=タラソフの芸術は、言葉以上のものだ。


 



*最近買った本・マンガ・DVD*(2009.10.17)

「人は歴史について書いたり読んだりするときに、征服や大量殺害や残虐のようなことも、進歩のためにはしかたがなかった、と思いがちだ。それは、多くの人々が、歴史とは、政府や征服者、指導者たちの物語だと考えているせいである。そうした視点から過去をふり返ると、歴史とは、ある国に何が起きたか、の話になるだろう。だから、国王や大統領、将軍が登場人物になるのだ。しかし、工場で働く者や農民、有色人種、女性や子どもはどうなのだろう? 彼らもまた、歴史の担い手ではないだろうか?」
 〜ハワード=ジン『学校では教えてくれないアメリカの歴史』〜


「ロシアでは、新自由主義的な「ショック療法」後に一握りの強力な新興財閥が台頭し、1990年代に同国を支配した。中国では、自由市場志向の政策が採られたことで所得と冨の不平等の途方もない拡大が生じた。(略)
OECD諸国もまた、1980年以降、「大幅な不平等の拡大を記録」し、さらに「世界人口の五分の一を占める最富裕国に住む人々と、世界人口の五分の一を占める最貧国の人々との間の所得格差が、1960年の30対1から1990年には60対1に、1997年には74対1になった」
 〜デヴィッド=ハーヴェイ『新自由主義』〜


「彼らを子どもあつかいするのはよせ。そうすれば、彼らは子どものようにふるまうのをやめるだろう。監督者のように行動するきみたちとは、いったい何者だ?」
 〜アルフレッド=べスター『虎よ、虎よ!』〜



ハワード=ジンの『民衆のアメリカ史』は、上下巻で2万円近くなる高価な本だが、このたび少年少女向けに編集し直されて、出版された。
題して、『学校で教えてくれない本当のアメリカの歴史』
えーと。

……なんか、歴史修正主義者が作った歴史教科書みたいなタイトルだが

中味はそれとは逆ベクトルです。
(^_^;)
しかし、このタイトルだけはなんとかならんかったんかなあ。

-☆

『所有せざる人々』が復刻されたので、記念に購入。
我が家にはいったい何冊の『所有せざる人々』があるのか。
そうそう、クレイグ=ライスの『スイート・ホーム殺人事件』も新訳版が出たので購入しておきました。

-☆

アルフレッド=ベスター『虎よ、虎よ!』の復刻版も出ていたので、これを機会に再読。
石ノ森章太郎の『サイボーグ009』の加速装置のもとネタになっていることは知っていたが、こうやって読み直してみると、あれだよね、

『アキラ』ってけっこう『虎よ、虎よ!』からパクってるよね?

しかし、もとネタの『虎よ、虎よ!』は『アキラ』のエリート主義とは別方向の結末へ動いていく。ネタはほとんどいっしょなのに、ベクトルが真逆なのだ。
楽観視などまったくせずに、むしろ、大衆の失敗の連続という厳しい現実をシビアに見据えつつ、ベスターは根本のところで大衆を肯定する。
まるで信仰か何かのように、宇宙的スケールで全面的に肯定するのだ。

-☆

デヴィッド=ハーヴェイ『新自由主義』で、今さらながら、ネオリベのお勉強中。
ネオコンだ、ネオリベだと、したり顔で語るのは簡単だが、ではいったいネオリベとはなんなのか。「新自由主義」という思想への熱狂が、経済界や一部政治エリートにとどまらず、古典的リベラリストやアナーキスト、中道左派からも沸き上がったのは、いったいどういうことだったのか。
いま私は過去形で「だった」と書いたけれど、「新自由主義」に対するリベラルからの支持拡大というものは、実は現在進行形だ。
ドイツの選挙結果を見ても、正統的左派政党の躍進以上に、「新自由主義」に対する急激な支持拡大という現象が起きている。
もちろん、新自由主義の危険な側面に気づいていたリベラリストも多数いたし、そもそものゲームがいんちきであることを喝破し警告していた政党も少なくない。
が、「ひとにぎりの特権階級に富と権力を集中させていく行動に対する自由」に関する、中道左派(一部の、ということにしておこう)の熱狂は、得体のしれない奇妙さ、居心地の悪さとなって、私の内部でとぐろをまいている。
居心地悪い状態というもは解消できないかもしれないが、せめて、得体のしれなさ、というものの正体だけでも、掴んでおきたい。この居心地の悪さの正体を掴むためには、さらっとでもいいから全体を俯瞰するような形で勉強しておく必要があるのではないかと思った。
そして、この新自由主義という思想は、左翼---とくにアナーキスト左派---に、根本的な自己検証と言葉の再定義をせまっている、と、現時点の私は感じている。
「自由」とは何か、「国家」とは何か、「権力」とは「社会」とは「共同体」とは?
「保守」とは? 「革新」とは?
ショスタコーヴィチの交響曲全集でも繰り返し聴きながら、すべての問いをもう一度最初から問い直す必要があるのではないか。


最近購入した本リスト。
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『新自由主義』
『レヴィ-ストロース』
『学校で教えてくれない本当のアメリカの歴史・上』
『学校で教えてくれない本当のアメリカの歴史・下』
『所有せざる人々』(SF)
『スイート・ホーム殺人事件』(新訳版)

・雑誌『月刊アフタヌーン』
・雑誌『月刊スピリッツ』
・雑誌『MacFan』
・雑誌『将棋世界』
・雑誌『ナンバー』(オシム・インタビュー)

漫画『鈴木先生3』
漫画『鈴木先生4』
漫画『大奥5』
漫画『ちはやふる6』

最近購入したDVD。
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『ロシア革命アニメーション』
『ローラーとヴァイオリン』
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漫画ばっかり読んでます。



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