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1941年の絵本(2004.5.14)


今日は聖和大学で絵本のお勉強の日。
先週は、レポートの発表もした。
学校と名のつく場所では、ほとんど
「わかりません」「知りません」「忘れました」としか、言ったことのない私である。
当日は、どうなることやら、不安で仕方がなかった。
しかし始まってみると、そこそこ笑いもとれて、とどこおりなく発表し終わることが出来た。
大阪人としては、やはり、笑いがとれたというのが、何よりも嬉しかったりする。ウケるウケないのポイントもつかめたし、次回は、もう少し頑張れるはずだ。論点を笑わせた過激な発表をもくろんでいる。
今回私がレポートした絵本は、1931年発行の『ミエバウノヒヨッコ』である。次会に発表する絵本も決まっていて、1941年発行の『ハツメイハ ナニカラ』だ。
絵本『ミエバウノヒヨッコ』発行から『ハツメイハ ナニカラ』発行までには、10年の月日が流れていることになる。それはちょうど、満州事変から太平洋戦争開戦までの期間に当たっている。
そうした時代の空気の移り変わりを念頭に入れつつ、レポート作製中である。
しかし、時代の空気の移り変わりと言っても、陰々滅々たる空気なので、ヤになるね。
ヒットラーあたりの資料を斜め読みすると、彼の政治的戦略が、21世紀初頭の某国某大統領や、某国某首相や、某国某都知事のふるまいと不気味なくらい酷似しているのに感心する。
声がでかくて、やたら自信満々で、そのくせ内容はぺらんぺらんのスッカスカなところは、特に似ている。
歴史は繰り返すとは、本当だなあ。
「革命、なんだな」
な〜んて、独特のなれなれしさで、某国某首相は言うんだな。
内容についていっさい語らないところが、ミソだ。
語らないものは、批判のしようもない。
でしょ?
そして、内容のないイメージ言葉(革命とか構造改革とか)は、内容がないがゆえに、どのようなバラ色の解釈も可能だということでもある。
某国某首相は、誰に対してもいい顔していられるのだ。
「この人について行けば、なにかいいことがある」と人々は勝手に思い込む。現状が不安定であればあるほど、思い込みたいという心理が働くから、簡単に信じてしまうのだ。
「なにかいいこと」などというような漠然とした言葉には、反論のしようがない。
「いいこと」は、そりゃ、「いいこと」だ。
みんな熱心に
「ハイル ヒットラー!」
「ハイル ヒットラー!」
って言うわな。
しかし、「いいこと」って、なんだ?
そもそも革命って、なんだ?




『ロシア・アニメーション傑作選集4』感想文(2004.5.12)


私が最初に出会ったロシアアニメは、小学生高学年のころに、弟とともに深夜映画で観たガリー=バルディンの短編アニメだ。
弟は、小学生のまだ低学年だったはずだ。
わずか数分のアニメに、私たち兄弟は、衝撃を受けた。驚愕した、と言っても、けっして言い過ぎではない。
それは、感動の名作映画を観た、という以上の驚きだった。
地球は丸い、というガリレオの声明をはじめて耳にした人々ならば、深夜映画を観ていた私たちの兄弟の衝撃の深さが理解してもらえるのではないか。そのとき、私たちは、世界の新しい形に、触れたのだ。
アニメとは、ただ面白がるだけのものではなくて、このような斬新な表現も可能なのだという発見。
まだ小学生の1年生あたりだった弟の受けた衝撃は、私が受けたそれとは、比較にならないくらい大きかったに違いない。その日以来、弟は、ガリー=バルディン・コンプレックスと言っていいような症状を示すようになった。弟にとってのガリー=バルディンは、絶対の存在なのだ。
弟の、ガリー=バルディンを探し求める日々が始まった。
弟がインターネットをはじめた動機は、ガリー=バルディンの追跡調査をするためだった。短編アニメ作家のガリー=バルディンの作品に出会うことは、実にむずかしい。フランスあたりでは、ひんぱんに上映されているという情報を弟は得ているが、さすがに、そのために渡仏はできない。
DVDの時代がやって来て、弟は期待している。隠れた名作を、DVDは発売することが、多いからだ。
ガリー=バルディンのDVDは、まだ日本では発売されていない。
そのかわり、と言っては何だが、『ロシア・アニメーション傑作選集4』のDVDを、弟が購入した。
『ロシア・アニメーション傑作選集4』は、旧ソビエト時代に発表されたロシアアニメーションの傑作短編集だ。
傑作選の中に、ガリー=バルディンの名前はないけれども、彼や、ユーリ=ノルシュテインらを産み出したソ連アニメーションの神髄に、触れてみようという弟の魂胆のようである。
さっそく、兄弟ふたりして、観賞した。
そして私たち兄弟は、ふたたび、とんでもないものを観せられたのだった。
傑作、傑作、次も傑作。その次も傑作。さらにその次も傑作。いくらなんでも、こんなことがありうるだろうか?
私は、馬鹿みたいに、収録作品の数だけ、傑作、傑作と言い続けるしかない。
映画を作るときの考え方からして、彼等と私たちでは、ぜんぜん違う!
アメリカ、そして日本では、ひとりでも多くの観客を動員することに成功した映画が、名画だ。10人が観賞すれば、10人が理解し9人が面白いと感じるか、否か。それが、映画多数派主義の私たちの基準だ。
ところが、旧ソ連のアニメ作家たちは、10人の人間に理解してもらおうなんて、最初から、考えていない。
彼等に言わせれば、そんなことは不可能だからだ(アメリカ人たちは、可能だと信じていて、それはそれでひとつの主張だ)。
彼等は、観客におもねるのを、よしとしていない。
「なんですか、これは?」
と観客が言うなら、言えばいい。
彼等は、路線バスにお客を乗せたまま、時速350キロでぶっ飛ばす!!
ものすごいGに、バスの車体が耐えきれずバラバラになってしまうのではないか!
想像もしたこともない、すさまじいドライブ体験だ。
快適だとか、目的地はどこだとか、そういうことは最初からまったく度外視だ。ゆくところは、バスがつれて行く先だ。これが、ロシアアニメの伝統だ。
彼等に言わせれば、
「最初から行き場所のわかっているバスに乗って面白いか?」
ということらしい。
つまるところ彼等は教育者なのだ。少なくとも、私にとっては、そうだ。
お師匠さん、ご指南役であられる。
アニメ監督たちが、私に囁く。
「美しいでしょう?」
「素晴しいでしょう?」
なんのことか、私にはわからない。対象物の観賞の仕方が、鈍感な私にはわからないからだ。
アニメ監督たちは、わからないまま立ち尽くしている私の顔を、作品という道具で両側からつかみ、正しい顔の位置に調整し、目の角度を細かく指示する。
すると、私にも見える。それが美しいしことがわかる。
ここに収録された短編アニメと、私の関係は、このような一種の師弟関係であり、上下関係だ。
そして、よいアニメ映画は、よい娯楽以上のものだ。
そもそも、観客動員を念頭に置くなら、短編アニメなどを作っていては、割に合うはずがない。
私は想像する。
監督である彼等が頭を悩ませたのは、観客動員数ではなく、国家の検閲のほうではなかったか?
社会主義国ソ連という独特の文化の文脈の中で、教育的であるか、そうでないかを決めるのは、最終的には国家だったはずだ。
アメリカ人たちとはまたぜんぜん違ったきまじめさに支えられ、推し進められた映画作りの環境の中で、彼等はときに、とてつもない不自由さを感じることもあったのではないだろうか。
しかし、くだらぬ政治的駆け引きや、押し問答の末に、検閲さえくぐり抜ければ、あとは映画制作を事実上国家が支えていたわけなのだから、そして、その作品の特に芸術性の面を高く評価しようとしていたのだから、その部分ではむしろやりやすかったに違いない。
少なくとも、これらのアニメーションを日本で製作することは、おそらく不可能だ。
わずか10分ほどの作品に数年を費やし、しかも観客を動員できるメドなど、ありはしないのだから。
ともかく、結論。
これは、生きているうちに観ておく価値は、絶対にある。




『ロッタちゃん』シリーズ感想文(2004.5.7)


お友だちからお借りしていた2本のDVD映画
『ロッタちゃんはじめてのおつかい』
と、
『ロッタちゃんと赤いじてんしゃ』
を観賞し終わった。
世界的に有名なスウェーデンの児童文学作家、アストリッド=リンドグレーンが原作者だ。
と言っても、私はアストリッド=リンドグレーンという人の本を一冊も読んだことがない。
それどころか、今まで名前を聞いたことさえなかった。
だから、『ロッタちゃん』シリーズのDVDを貸してくれたお友だちと
『やかまし村の子どもたち』というスウェーデン映画、おもしろいよお」
などと無邪気に話したりしていたりした。ところが、『ロッタちゃん』も『やかまし村の子どもたち』も、実は同じアストリッド=リンドグレーンが原作だったのだ。
知らなかった。面白いと言いながら、原作についてすら何も確認していない私。エンドロールに流れたはずの原作者の名前すら、まったく読んでないのだ。
(;^-^ゞ
お友だちは、私が、リンドグレーンつながりであれこれ話をしてると思ってくれていたようだ。事実は、ただ面白いと思った映画についてしゃべくっていたに過ぎない。
さて。
『ロッタちゃん』も『やかまし村の子どもたち』と原作者が同じなのだから、当然スウェーデンの映画だ。
ロッタちゃんは、5歳の女の子だ。家族は、お母さんにお父さん、お兄さんとお姉さんがいるという構成。彼女は末っ子だ。
映画の中でロッタちゃんは、たえずと言っても言い過ぎではないほどに、ずっと腹を立てている。
お母さんに腹を立て、お兄ちゃんに腹を立て、お姉ちゃんに腹を立てる。
「きゃー!」
と声を張り上げて、地団駄踏んで怒っている。
ロッタちゃんのお兄ちゃんとお姉ちゃんは、映画の中で、絶えず組になって動いている。
これはどういうことだろう? ロッタちゃんに対して、上の兄姉はいつもふたりがかりだ。といっても、ロッタちゃんが上のふたりの兄姉と2対1で対立しているというわけではけっしてなくて、それなりに仲も良いのだが、ロッタちゃんと上のふたりとは、やはり精神的な距離がある。
上のふたりの兄姉は、互いとより密接でありながら、ロッタちゃんを子ども扱いする。
お母さんも、なにかとロッタちゃんを子ども扱いする。
ロッタちゃんは、それがゆるせない。
まだ小さいからという理由で、なにやかやと行動が制限されるのが、彼女には我慢ならない。
だから、いつも怒っている。
吉田戦車センセの漫画に出てくる幼稚園児のセリフで、
「私を子どもにお産みになったのは、お母様なのに!」
というのがあったはずだが(うろ覚え)、まだまだ子どもという理由で、あれも却下、それも断念では、ストレスもたまるというものだ。
彼女は、いつだって、
「私、できるもん!」なのだ。
もしも、できないことがあったとしても、
「いつかできるもん!」なのだ。
ロッタちゃんは、自分が何でもできると心から信じている。わからずやのお母さんに頭に来て、家出だってしちゃう。
そして、とうとう、ひとり暮らしをはじめる!
5歳の女の子のひとり暮らしは、最年少記録ではなかろうか!
彼女は、一人前のひとりの人間として周囲に扱ってもらいたいと願っている。
そして、一人前の人間として扱って欲しいという彼女の願いを、大人である私たちは、やはり聞き届けるべきだ。
子どもは、未熟な大人ではけっしてない。
子どもは、子どもだ。
ロッタちゃんは、ロッタちゃんだ。
ロッタちゃんの映画を観ていると、何やら懐かしい気がして仕方がない。
何だろうと思っていたが、いま気がついた。
ロッタちゃんは、楳図かすおセンセの大ヒット漫画『まことちゃん』の主人公、まことちゃんとよく似ているのだ。
「ええ〜!!!違うよう!!」
という叫びが、あちこちからあがった気がする。
(^_^;)
でも、『まことちゃん』を、お下劣ギャグ漫画と切り捨てるのは、私は間違っていると思うよ。
まことちゃんは、本当にいい子。あんなにいい子は、ちょといない。
……いや、ほんとだって! だけど、子どもというそれだけの理由で、いつも、つらいつらい目にあってる。
まことちゃんがいい子だって、家族の誰も思っていない。読者すら、思っていない。
そうした点で、まことちゃんの境遇は、ロッタちゃんのそれよりもずいぶん悪い。
スウェーデンと日本との、社会の成熟度の違いか。
子どもの人権とは具体的には一体何をさすのか、という議論すら、まともになされていないのが、この日本の現状だ。
「子どもの人権」という言葉を地べたにほうり投げ、あとはめいめい勝手に言葉の解釈をして見せて、それで終わりだ。
子供を産み、育てる環境として、日本は、まったく適した場所じゃない。
スウェーデンがいいと、私は思う。
と、以上が、私の映画の感想だ。
映画を貸してくださったお友だちには、一番いい笑顔で、ありがとうと言いたい。
ちょっと、練習しておこう。
(*^▽^*)




発表は金曜日(2004.5.6)


4月から、毎週金曜日、聖和大学に通っている。何をしているのかというと、なんと、絵本のお勉強をしているのだ。
科目等履修生という身分。
今週はいよいよ、レポートの発表をしなければならない。
明日だ。
題材も決まり、ゴールデンウィークには、大阪国際児童文学館というところで資料集めをしたりもした。貴重な絵本がたくさん置いてある場所だ。探していたレオ=レオニの絶版本も見つけて、資料集めを忘れてウシャウシャ喜んだりもした。
そのような浮かれ調子だったからか、肝心のレポートが、どうもうまくいかない。
なにやら、絵本から受けた印象を印象のままに書き連ねる、読書感想文のようになってしまう。
しかし、縦18センチ、横13センチの版型。4色オフセット印刷、というように事実だけを書き連ねていっても、あまり面白くない。
面白くないと思うから、受けた印象をもとに、根拠のない仮説や、推測というよりも空想のようなものをだらだらと書いて、また消すというくりかえしになり、ぜんぜんまとまらない。
根が関西人なので、ある種のサービス精神のようなものが働いて、面白おかしくまとめようとしてしまう。お勉強というものを、根本から勘違いしているのかもしれない。
「おぬし。大学に通ってもしょせんは、お遊戯の域を出ないヤツじゃの」と、自分自身を笑ってひとり楽しむ。が、レポートは未完のまま。
発表日が迫って、楽しんでばかりもいられなくなった。
さあ、どうしようか。




『チェコアニメ傑作選2』感想文(2004.4.29)


お友だちからお借りしていたDVD『チェコアニメ傑作選2』を観賞した。
タイトルどおり、優れた人形アニメを数多く生み出しているチェコという国で作られた短編アニメーションの傑作集だ。
短編アニメーションを、作家別ではなく国別に分類して何か意味があるのかと、不思議に思うかたがおありになるかもしれないが、ところがこれが、じゅうぶん成立している。
チェコのアニメを観ていると、歴史に疎い私でも、伝統というものを感じずにはいられない。
90年代以降に日本で紹介されたイラン映画が、どれも歴史に残るような傑作ばかりであるように、チェコのアニメは、他に分類しようがないほどに、どうどうとチェコのアニメだ。
DVDで紹介されているアニメーションは、伝統にのっとって、ほとんどが人形(パペット)アニメーションだ。
人形(パペット)アニメーションは、作品の中に使用される人形を少しずつ稼働させながら、それを一コマずつ撮影していくことで、アニメーションとしての動きを生みだす。
たとえば人形を歩かせたいなら、ひとの歩く動作を数十分の一秒ずつに分解し、分解された一瞬一瞬をさらにアニメーション用のものに加工してから、人形にトレースさせていく。
そうやって、長い時間をかけ、膨大な量になるすべてのコマを丁寧に作り上げる。最後にコマをつなげれば、それが動きとなり、アニメーションとなる。
気の遠くなるくらいに手の込んだ、緻密な計算と途方もない根気の要求される製作方法だ。
しかも、パペットアニメは、非常に制約の多い分野だ。
ともかく人形しか出てこないのだから、基本的に登場人物たちの表情は変わらない。変えようがない。カメラの角度や、人形の身体を使ったパントマイムで、感情を表現していく。
一隻の汽船が大海原を航海してる。ただこれだけのシーンを撮影するだけでも、人形アニメーションだと、ひと工夫もふた工夫も凝らさなければならない。
まず、うねる波の表現はどうするのか? 進む汽船の動きに、どうすればリアリティーが生まれるだろうか?
この問いに対する答えを見つけないかぎり、何も動き出さない。
さあ、ここがパペットアニメ作家たちの腕の見せどころだ。人形であるという厳しい制約の中で、彼だけの正解、新しい解答を用意しなければならない。それは、アニメーション作家である彼の、わくわくするような創造への挑戦だ。
そして、もうひとつ、パペットアニメであることの利点は、人形が演じているというそれだけですでに、作品世界は観念の世界へと大きく傾くということがある。
表情や動きの限定された人形たちが命を吹き込まれた世界は、抽象性のきわめて高い前衛芸術の領域なのだ。
自然、その領域での物語のアイデアは、観念的で、抽象的なものになりがちだ。
例えば、DVDのトリを務める『ナイトエンジェル』は、自動車事故で視力を失った男の主観的な時空間を、見事なまでに美的に映像化している。
実写でこれらの時空間を映像化したらどうだったろう? パペットアニメを作成するときとは別の、大きな問題を抱えたのに違いない。抽象化と、抒情性の表現という問題だ。
この作品の中で、暗やみを手探りする主人公の時空間は、いともやすやすと美的に蒸留され、象徴化され、甘美な情緒性に満たされる。
パペットアニメの有効性をひとことで語るとすれば、やはり抽象化ということになる。
それは、純粋に、芸術家の仕事だ。
芸術家とは、今まで知らなかった角度から世界を見ることを私たちに教え、新しい生きかたを提案するひとたちのことだ。
チェコの多くの芸術家たちが、その表現手段としてアニメーションを選んだということこそが、伝統なのだろう。
やがては、チェコ伝統のアニメーション作家たちの名前そのものが象徴化されてゆき、あるジャンルの芸術の代名詞として、今日もひとびとのくちにのぼる。
『チェコアニメ傑作選』とは、極めてシンボリックなタイトルなのだと、今さらに気がつく。




プチ戒厳令(2004.4.28)


『ドッグヴィル』『10話』『グッバイレーニン』『ぼくは怖くない』『殺人の追憶』『エヴァとステファンとすてきな家族』……
観たい映画がいっぱいあったのに、結局『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』だけしか観に行けなかった。
しかもこれが大外れときたもんだ。
名作『指輪物語』を映画化するにあたって、こともあろうにアクション超大作にしてしまったハリウッド映画を、私は恨む。
あ〜。
観に行けなかった『ドッグヴィル』は、あの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を撮ったデンマークの奇才、ラース=フォン=トリアーの作品だ。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と同じ監督……。ちょっと、びびる〜。
(^_^;)
実は、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』公開後、アメリカの評論家たちに
「アメリカに行ったことのない人間がアメリカを描けるんかい!」
という不当な(そして無意味な)難癖をつけられたという後日談があったそうだ。
それを聞いたラース=フォン=トリアー監督は
「わからいでか!」
と挑戦を正面から受け取り、アメリカの欺瞞性、残忍性、自国の内側のこと以外はまったく知ろうともしない傲慢さを遺憾なく描ききるために撮ったのが、この『ドッグヴィル』だ。
嘘のような話だが、アメリカに住んでいる多くのひとたちは、自分たちが世界に向かって行っている無慈悲なおせっかいこそ正義だと、本気で信じ込んでいる! 自分たちの価値観だけが唯一無二の世界基準なのだと、無邪気に主張する!
「なになに、中東の抗議? あれは未開人どものたわごとだ。ヨーロッパの不満? それは負け組の遠吠えさ。日本? こいつは、あまりお利口でないアメリカのペットさ」万事この調子。
そんな連中のおけつ丸出しの所業を、ラース=フォン=トリアー監督はどのような映画作品にしてみせたのか。
いや〜、興味がある。
面白そう。
映画のラストは、聞いたところによれば、善も悪も、内側も外側も、老人も子どもも、男も女も、強者も弱者も何もかもが風呂の栓を抜いたように渦を巻いてなだれ落ちる大破局となるようだ。
まあなんと。
未来に見えるヴィジョンはみんな一緒なんだよなあ。
……ラース=フォン=トリアー監督とヴィジョンを共有できて嬉しいような、元気が出ないような。
(;-_-ゞ
『10話』のほうは、いま私がもっとも好きな映画監督、アッバス=キアロスタミの作品だ。
いちばん好きとか言いながら、映画館に足も運ばないで終わってしまった。
何と不実なファンだろうか。
DVDで発売されるかな、と思っていたのだ、実は。
しかし、アッバス=キアロスタミは、イラン人で、『10話』は、イラン映画だ。
イランといえば、中東だ。「ン」が「ク」と、一字違うと、大変だ。
うむむ、このご時世じゃあ、中東の映画は、DVD化はあやしいなあ。
アメリカの記者たちが、あまりの右傾化にびっくらこいでのけぞっているような、そんな国だもん。
考えれば、日本も凄いことになったよね〜。
そのうちに、町内会で竹ヤリ訓練でもはじめかねない雰囲気だ。
いや、洒落や冗談でなく。
いわゆる太平洋戦争なんて馬鹿げたことを、当時の日本人たちはどうしてはじめたんだろうとずっと不可解だったんだけれど、いまはハッキリとわかるよ。
小泉首相の警告によると、ゴールデンウイークは人込みを避けてお暮らしください、無差別テロに巻き込まれる危険があります、とのことだ。
(;゚ ロ ゚)ほげ〜。
もしもテロに巻き込まれたら、そのひとはどうなるのだろう? 警告したにも関わらず、人込みのなかに入って行くのは自己責任つって、非難ごうごう?
はは……。
もう、言葉もないよ。さすがに。
竹ヤリ訓練の前に、まずは防空ごう掘りですね。




楽しいものをたくさんお借りして(2004.4.27)


Y=Tさんからお借りしたままになっていたヴィデオを、先日、ようやくお返しできた。
ほんとうに、長い間、ありがとうございました。
(*^▽^*)
そして、そのヴィデオと入れ替わるようにまた、いろいろと楽しいものを新しくお借りしてしまった。
まずはDVDで『チェコアニメ傑作選2』『ロッタちゃん・はじめてのおつかい』『ロッタちゃんと赤いじてんしゃ』だ。
チェコアニメの素晴らしさについては、今さら私があれこれ言う必要はないだろう。このDVDは、複数のアニメ作家さんたちの作品を集めた、短編集の形式になっている。
この短編集に収められている『ナイトエンジェル』という作品を、私は、深夜映画で昔に観たことがある。本当に見事な傑作で、もう一度出会えたことに、喜びを隠しきれない(隠さなくてもいいんだけどね)。
『ロッタちゃん……』は、個人的に最近大注目のスウェーデン映画だ。スウェーデン映画が観たいとリクエストを出したわけではないのに、Y=Tさん、もしかして、読心術ができるのですか?
(^-^;)
お借りしたのはこれだけではない。
本もお借りしている。
『チェコアニメの巨匠たち』『人形アニメーションの魅力』、そしてユーリ=ノルシュテインの画文集『フラーニャと私』と、ぜんぶアニメ関係の本だ。
ぶしゃ〜!! ユーリ=ノルシュテインの画文集! 高くて、とても買えなかった本である。
あまりに嬉しくて、なかなかページが開けない。2、3ページ開いてはまた閉じる。
あーしあわせ。
私は、絵描きさんの書いた文章を読むのが大好きだ。彼らは、私たちが見ているようには、この世界を見ていない。その事実が、私を喜ばせる。
彼らの文脈……絵画的に正しい光、整理された色、形、動きの美しさや速度について、彼らが熱心に語るのを、私は聞く。
ユーリ=ノルシュテインは絵描きではなくてアニメーション作家だけれども、真の芸術家であることには変わりはない。
そして彼は、チェーホフやドストエフスキー、ゴーゴリといった、古くそして偉大なロシア文学者たちの正当な後継者でもある。映画監督のタルコフスキーがそうであるように。
一日に2ページずつという速度の読書スピードで、次にお会いするときに間に合うのだろうかと心配もするが、このような本を気前よくお貸しいただけて、とても感謝しております、Y=Tさん。
(*^▽^*)

ちょっと休憩。

先日、Hさんご夫婦に遊びに来ていただいた。
いっぱいいっぱい遊んでいただけて、私は嬉しかったのだけれど、Hさんご夫婦はもしかしたらお疲れになってしまったのではないかと、今になってちょっと心配をしている。
そして、ずうずうしいことに、この時とばかりHさん夫婦にも、色々と楽しいものをお借りしてしまった。
谷川俊太郎氏と谷川賢作氏による詩と音楽のコラボレーションCD『無限色のクレヨン』と、『Kiss』、それから谷川俊太郎氏のひらがな長詩集『みみをすます』だ。
世界中に詩は山ほどあるが、その詩を好きになれるかどうかは、その世界観を共有できるかどうかにかかっている。
そして詩の世界観とは、私にとってはそれは場面だ。
私の書いた詩を振り返ってみると、どれもみんな、日常の(もしくは非日常の)小さなワンシーンだ。
などなどと、自分の書いた詩にまでへ理屈をこねて、今日も楽しい。
新婚の、おふたりのHさん、どうもありがとうございます。
(*^▽^*)
私の好きな詩集に『ルバイヤート』というのがあるので、今度、お貸しいたしますね。

さらに休憩。 且_(・_・ )お茶どうぞ。

東京の演劇をやっているお友だちからメールをいただいた。
それによると、なんと彼は、今度の宮崎アニメの最新作に声で出演することが決まったそうだ。
どしー!
すごい、すごい、ひごい、まごい!
ああ、今度の宮崎アニメは、最低2回は観なくちゃいけない。
1回目は、お友だちのことが気になって、ストーリーそっちのけになってしまうだろうから。
おめでとうと彼に言ったら、こんなことくらいで、と、逆にお叱りを受けてしまうだろうか。でも、自分のことのように、嬉しいです。
おめでとう。




ここ10日間の出来事(2004.4.26)


実はこの4月から、聖和大学で週一回、絵本のお勉強をしている。
どうして今ごろ打ち明けるかというと、
「アンタみたいなアッポが、うちの大学の門をくぐるのはまかりならん」
と、門前払いされるんじゃないかと、ずっと不安だったのだ。
「オー! 大学」
などと有頂天になって、さんざんみなさんに吹聴してから、やっぱり違っていましたというのは、これは恥ずかしいじゃないですか。
ずっと、慎重に、身を潜めておりました(笑)。
しかし、私のようなアッポが、大学で絵本の勉強を許可されたというのは、間違いではなかったらしい。
鳥越信先生のご講義を、大学院生の皆さまにまじって、聞いている。
科目等履修生という身分だ。
科目等履修生証もいただいている(不細工な顔写真つき)。
大学では、鳥越信先生のお話を聞いてお勉強するだけではなくて、レポートを作って、みなの前で発表もせねばならない。
さて、どうしたものだろうと、首を右にかしげたり左にかしげたりしているところだ。

さて。これでは終わらない。
おなじみ『ぱふ』さんでは、高山智津子先生の『絵本読み聞かせ養成講座』にも通っている。
子どもたちに絵本を読んで聞かせるさいの、さまざまな技術を身につけるための連続講座だ。
小さいひとたちに絵本を読んで聞かせる。これが簡単そうで、なかなか難しい。
字面だけ追っているようでは、聞いている者たちが存分に楽しめるように臨場感たっぷりに読めと、小さいひとたちの演技指導が容赦なくとぶはずだ。
絵本は、ただ読めばいいというものではないらしい。
小さいひとたちに向かって絵本を読んで、そのひとときを楽しんでもらうには、さまざまなテクニックを駆使しなければならない。
その技術を、『絵本読み聞かせ養成講座』にて、養おうという魂胆だ。
こうやって書いていると、何やらおおごとに感じられてきて、いまさら青くなってくる。
告白するが、実は私は、他人に向かって声を出して絵本を読んだことが一度もない。
さしあたってこれからも、そのような機会はない。
しかし、ある日のこと、私が父親になって、自分の子どもに絵本を読んであげるというような事態が、まったくないとも言いきれない。
そのときのための、準備だ。
私は、立派な父親にはけっしてなれないというそんな自信だけはたっぷりとある。だから、子どもが大きくなったとき、さんざん恨まれるのではないかという不安がある。子どもに恨まれるのは、悲しい。だから、絵本ぐらいはたっぷり読んであげて、
「うちのトーチャン、絵本だけは読んでくれたなあ」
と、子どもには回想してもらおう。
心配性の私は、こういう心配も、かかえている。




自己責任の意味(2004.4.24)

日本の自衛隊は今日も、遠い遠いイラクで、人道支援にご従事されている。
兵隊さんよありがとう。
そんなに人道支援にご熱心なのでしたら、どうか、アフガニスタンにも、人道支援してあげてください。
ああ〜!! 忘れてた〜〜!! 
アフガニスタンは石油が取れないんだった〜〜〜!!!
鶏が地面をほじるのは、そこにミミズがいるからなのね。
(^-^;)
イラクで誘拐されていた日本人5人が帰国した。
そして、無事に帰ってきた彼ら5人には、マスコミをあげての容赦ないバッシングが待っていた。
いわゆる「自己責任論」だ。
戦争状態にあるイラクにノコノコ出かけていくという無謀な行動を取ったのだから、結果なにが起ころうと、すべて誘拐された者たちの自己責任なのだ、という非難。攻撃。
ふ〜ん、不思議な理屈があったものだなあ。
一連の経過を振り返れば、イラクの状況を楽観視していたのは自衛隊と自衛隊を派遣した日本政府であり、誘拐された彼らはむしろ、その危険性を以前から把握していたようだ。
じっさいNGO関係者は、“自衛隊の派遣により情勢は悪化するだろう”と見通しを立て、日本政府に警告し続けていた。
さて。
穴に手を突っ込んで、うんこをつかんだのは誰か?
うんこだよって、教えてあげたのにねえ。
少なくとも、誘拐された彼らではないことだけは確かだ。
貧乏くじは引いたけれどね。
情勢の悪化にもかかわらず、彼らがその地を離れなかったのは、それがNGOの活動だからであり、目の前で苦しんでいるひとたちを見捨ててはおけないという想いであり、彼らの「自己責任」だからだ。
だから、戦場と化したイラクで、最悪、彼らが命を落とすことになっても、確かにそれは彼らの判断、「自己責任」だ。
しかし、それを他人にとやかく言われる筋合いなどあるわけがない。
自己責任? それでなんなの? 何か悪いことしたの?
読売新聞などは、派遣した外務副大臣の日当の計算までして、この金をどうしてくれると彼らに文句をつけている。
おいおいおい。
馬鹿にするのもいい加減にしろよ。
私たちが税金を払っているのは、外務副大臣に給料を払うためではないで。
なあ?
それが外務副大臣の、仕事だろうが。
「責任」をもって、仕事をしてくださいよ。
それとも、こっちがぺこぺこ頭下げて、別途料金として日当払わないと仕事してくんないんだろうか?
いいですか(金八先生のお説教口調)。
「自己責任」でもって「人道支援」を続けていた彼らが、非運なことに誘拐拉致された。これが事件の発端だ。
そのとき私たちは、何を思うのか。彼らが生きて帰ってくるのも、死んでしまうのも、勝手に自己責任でやってくれ、イラクの石油のほうが大切だ、と考えるのか。
よその国に銃を担いで乗りこみ居座るという前例を作るのとひきかえに、彼らの活動を軽率のひとことでかたずけてしまえるのか。
日本政府は、彼らの命を救うことに、最初から非常に消極的だった。これは、おそるべきことだ! 政府は最初から自衛隊の撤退などまったく念頭になく、自己責任だのと被害者のバッシングをすることで問題をすり替え、自分たちの「責任」をうやむやにし続けた。
国に責任がないとすれば、誰の責任なのか。誘拐された当人たちだ、という理屈。
こんな理屈は生まれて初めてだが、テレビが言えば、翌日からそれがスタンダードだ。こうなれば、なんでも言ったもの勝ちだ。繰り返し言い続ければ、やがてそれが真実になる。ヒットラーがそう看破しているよね。
ポイントは、自信たっぷりであること、繰り返すことの2点だ。
誘拐は自作自演だとか、心ない誹謗中傷も言いたい放題。
ヒットラーから学んだことって、いっぱいあるね。
本当のところ、彼らが解放されたのは、各国のNGOのよびかけ、「彼らはイラクの敵ではない」、「イラクの敵ではない」が、非常に大きかった。
NGOのよびかけがなかったら、もしかしたら……。
日本の自衛隊は、NGOの活動のさまたげになることで、その存在感をしめす。

 




『ゲド戦記・影との戦い』読んだ(2004.4.16)

アーシュラ=K=ル=グインのファンタジーシリーズ『ゲド戦記・影との戦い』を読み終わった。
なに! アーシュラ=K=ル=グインのファンを自称しながら、今の今まで代表作『ゲド戦記』も読んでいなかったのか! と、自分で自分につっこんでおこう。
(;^-^ゞ
言いわけさせてもらうと、『ゲド戦記』という日本語版のタイトルが悪いよね。戦国武勇伝のようなチャンバラ物語ではないかと、ずっと勘違いしていたのだった。
ちなみに原題は『A wizard of Earthsea』だ。ぜんぜんちがう。
さらに悪いことに、うちの母親が『ゲド戦記シリーズ』を先に読んでいて、感想を訊くと
「面白くない、くだらない」
と吹聴するものだから。
もう、アーシュラ=K=ル=グインはSFだけのひとなのかな、と、すっかり決め込んでしまっていた。
しかし、最近のファンタジー体験ときたら、映画『ロード・オブ・ザ・リング』にぶちきれて、『ハリーポッター・シリーズ』にあきれ返るといった、インケツつづき。
アーシュラ=K=ル=グインの大作も本当にダメダメなのだろうか? 実際はどんなものだろうと、読んでみることにした。
……グフッ……すごい。
めちゃくちゃ、面白いじゃないのさ。
だまされた。
『ゲド戦記』は、「影との戦い」、「こわれた腕環」、「さいはての島へ」、「帰還」、「アースシーの風」の5作品からなる、ファンタジーシリーズだ。
シリーズ全体のまだ5ぶんの1しか読み終わっていないのだから、あれこれ語るのは危険だ。感想文は、控えておこう。
弟からも、ネタバレ厳禁と強く言い渡されている。
(;^_^ A
でも、ちょっとだけ。
この物語の主人公、ハイタカは、魔法使いだ。第1部「影との戦い」では、彼の少年期を描いている。
少年ハイタカは、本格的な魔法を身につけるために、最初の師オジオンの紹介により、魔法学校に通う。
このあたりは、『ハリー・ポッターシリーズ』の展開と、設定自体はよく似ている。にも関わらず、作者の向いている方向がまったく正反対なのが、面白い。
そうだ、『ゲド戦記』の話はネタバレ禁止なので、変わりにハリー・ポッターの話をしよう。

ハリーポッターシリーズの主人公、ハリー・ポッターも、『ゲド戦記』のハイタカと同じく、魔法学校に通う魔法使いの卵だ。
しかし、ハリー・ポッターシリーズでは、魔法の力は正義の側と悪の側とのラグビーゲームのようなものだ。正義の側……ハリー・ポッターの側がボールをキープしてさえいれば、それで物語は万事OKなのだ。
今度のゲームも正義の力が勝った! 正義の側が勝利した! ばんざい、ばんざい。
基本的にはこれが、ハリー・ポッターの通っている魔法学校の日常だ。
ハリーの通うボグワーツ魔法学校の教師たちはというと、校長から率先して、一部の生徒を贔屓しまくる。
いやもう、仰天するばかりの、あからさまな、贔屓につぐ贔屓。
そのうえに、江戸時代の五人組そっくりのクラス対抗及び連帯責任制度を導入し、子どもたちがことさらに反目しあうように仕向けさえしているのだ!
お前ら全員、教師失格じゃ〜!!!
!Σ(●◇●メ)
果てしない出し抜きあいをくりひろげるためにクラス分けされた生徒たちと、それぞれのクラスの受け持つ担任教師たち。彼等は、互いをけん制しあい、隙を見て何とか相手を出し抜こうと、あれこれよからぬ画策にはげむ。
点数、点数、点数!
その競争原理、連帯責任制度はどこまでも徹底していて、例えば、ある教師の質問に、生徒が正解を答えるとする。すかさず
「君の“クラス”に10点追加!!」
知識を得ること、何かを身に付けることって、そういうことじゃないだろう! 創造性も発展性も、建設的な意味での社会性にも思いをはせぬまま、子どもたちは魔法の力だけを手に入れる。そして手に入れた魔法の力を、無批判なまま、点数を稼ぐためや相手を出し抜くための道具として、彼等は使っていく。
ハリー・ポッターの新作を読むたびに、私の心は慄然とする。
どうしてこういうことになるのか。
学校を運営している側の大人たちにしてみれば、ハリー・ポッターがボールをキープすることのみが大切なのだから、他のあらゆることは、すべて問題外なのらしい。
そして、きっと、本音としてはこちらのほうがより重要なのだろうが、子どもたち同士が反目しあっている状況のほうが、学校側としては何かと色々やりやすいのだろう。
実際のところは、学校運営者たちの思惑は、作者でない私にはわからない。しかし、つくづくとんでもない学校なのは、これは間違いない。こんな学校に1年もいると、その子の一生はだいなしになってしまうのではないか。
ちなみに、ハリー・ポッターシリーズの2巻では、主人公のハリーが、仲良しのふたりと組んで、無差別テロを行うエピソードがある!
ある魔法薬を盗みだそうとした(すでに犯罪だ)ハリーたちは、教師の目を逸らすために、教室で「ふくれ薬」を破裂させたのだ。
「ふくれ薬」は、薬が触れた個所の皮膚が異常に膨れる劇薬だ。鼻がメロンほどに腫れてしまった学友、棍棒のようになった腕をだらりとぶら下げている者、唇が巨大に腫れ上がって口のきくこともできない者。大惨事だ。
書籍からそのまま引用すると、そのとき「ハリーは必死で笑いをこらえた」のであった。
おいおいおい、いくら何でも洒落ならんで、ホンマ。
世の中にはやって良いことと悪いこととがあって、無差別テロは、やってはいけないことの中でも、最悪の部類に入る。
しかし、ハリー・ポッターのテロ行為は、書物の中で容認され、それどころか奨励されてさえいる。
読者は、ハリーのテロ行為に対して、何の疑問も持たない。
なぜならば、ハリー・ポッターは悪の魔法使いを倒す(はずの)正義の魔法使いであるという、無根拠の定義を、読者がすんなりと受け入れてしまうからだ。
そのひとがハリー・ポッターであれば、どのような反社会的行為も、主人公特権によって肯定される。彼こそが正義だからだ。
アメリカやイギリスの唱える「無限の正義」やら、「悪の枢軸」とやらに、正直うんざりしている私としては、ハリー・ポッターの物語を、そうとうにうさんくさい目で眺めざるをえない。
あくまでも無邪気なまま、より強力な力を得ることに何の疑問も抱くことのないハリー・ポッターと、強大な力を得るごとにさらに重い責務を背に担ぎ、空中に張られた一本のロープの上を渡り歩くかのような均衡を保たなくてはならなくなってゆくハイタカとのコントラストを意識しながら、物語を読み進めるという作業を、私は楽しんだ。
そして、『ゲド戦記』はお説教が、的確だ。
ファンタジーは、お説教のできで、すべてが決まると言っても、過言ではない。
ファンタジー作品への期待とは、結局のところ、できのいいお説教への期待なのだから。
『ゲド戦記・影との戦い』では、見事なお説教が次々に炸裂する。
例えば、魔法学院の教師“呼び出しの長”がハイタカに語ったお説教。

「そなた、子どもの頃は魔法使いに不可能なことなどないと思っておっただろうな。わしも昔はそうだった。わしらはみんなそう思っておった。だが、事実は違う。力を持ち、知識が豊かに広がっていけば行くほど、その人間のたどるべき道は狭くなり、やがては何一つ選べるものはなくなって、ただ、しなければならないことだけをするようになるものなのだ。」

どうすか!

「川にもてあそばれ、その流れにたゆとう棒きれになりたくなかったら、人は自ら川にならねばならぬ。その源から流れ下って海に到達するまで、そのすべてを自分のものとせねばならぬ」

オー! いかにもお説教という物言いが、意味深さをかもしだして、いい感じ。

「お願いです。私にはお名前をあかすことは出来ません。まだ、力がないのです。計略で探り出すことも出来ません。まだ、知恵も足りませんので。」

ホー!
「力がないのです」のあとに、「知恵も足りませんので。」と言い足すところが、賢いなあ。自分自身を知ることが、もっとも難しいのだから。
実は、『ゲド戦記・影との戦い』は、最初の一行目からいきなりお説教だ。

ことばは沈黙に
光は闇に
生は死の中にこそあるものなれ
飛翔せるタカの
虚空にこそ輝ける如くに

これは、ある架空の書物からの引用という形で詠われる、短い巻頭詩だ。
ありがたいお説教づくしで、少なくとも第1巻は、素晴しい読みごたえであった。


*追加*
この日記を書いている途中で、イラクでの人質3名の釈放のニュースを聞いた。
真の平和を望んで行動していた彼等のような方々が、自衛隊派遣の犠牲になってしまえば、これほど悲しいことはないと、ずっと思っていた。
日本国政府は、彼等の命よりも、国益のほうを優先した。にもかかわらず彼等が釈放されたのは、テレビで流れた、世界平和を願う勇気ある日本の市民たちの姿があったからだった。
悪いニュースはぞくぞくと入ってきている。けれど、 今は、彼等の無事を心から喜びたい。

 



任された目的(2004.4.15)

カート=ヴォネガットの初期の小説に『猫のゆりかご』という傑作がある。
ボコノン教という架空の宗教書が、この小説の中でたびたび引用される。
例えば、世界創造のいきさつは、ボコノンの書では、こうだ。

泥から生まれた人が、起きあがり、あたりを見まわし、話しはじめると、神はそのそばに行かれた。人は目をしばたたいた。
「いったい、これには何の目的があるのですか?」と人はていねいにたずねた。
「あらゆるものに目的がなければいけないのか?」と神さまはきかれた。
「もちろん」と人は言った。
「では、これの目的を考えだすことをあなたにまかせよう」と神は言われた。

で、任された結果、このありさまだ。
(;_;)
私たち人間は、今日こうして存在することの意味や、生きる目的を見いだすことを赦されている。
科学者は言う、すべては偶発事故と。
それは正しい。生きる目的なんて、本来は、どこにもない。私たち自身が作り出したもの以外は!
神さまが実在するかどうかは別にして、生きる目的に、既製品はない。
真っ白のキャンパスに、私たち人間が描き出さなければならない。それは、最高の自由を赦されているということであり、それと同時に、もっとも重い重責を負っているということでもある。
私たちは、もっともっと賢いやりかたで、自分たちがここにいる目的を、作り出すことができたはずだ。
例えば、朝、目覚めて、鳥のさえずりを聞く、そのために生まれたと言っても良かった! 窓を開けて感じる、新しい風! お母さんが作る、朝食の匂い。棺桶の中の死人たちは、ありふれたそれらの出来事が、どれほど素晴しいことか、どれほど貴重なことか、思い出しているだろう。
いま、私たちは生きている。
恋人に接吻し、子どもをお風呂に入れ、仲間と力をあわせひとつの困難を乗り越えてみせる。今日、この日のために生きているのだと、そう言っても良かった。
ところが、よりにもよって、こんな気違いじみたやりかたを選んでしまうとは……。
残酷、冷酷、暴力、無力! うそつき、ごろつき、がっつき、疑心暗鬼……。
歌ができそうだな。

どれをとっても泣き叫ぶ羽目になることに変わりはない
ただ地下牢だけは、死ぬ前に考える時間をくれる

そうボコノンは言う。
ロマンチストのボコノンは、人間の現実をもしっかり見すえている。
で。
いま私は、恐れおののきながら、考えてる。
この日記は、地下牢としては、とびきり快適だ。ここは地下牢というよりは待合室という感じで、最後の時を待つ身としては、ありがたい境遇にいると言える。
私はこの待合室で、地獄行きの列車の到着を待っている。
すべてを巻き込み、泣き叫びながらなだれ落ちる、大破局はすぐ目の前だ。
私は、世界中の子どもたちに言う。
「君たちがこれから体験する、もしくは体験しつつある未曾有の苦痛について、君たちにはいっさい責任はない。……ごめんなさい」




小鬼のトリオを抱きしめたい(2004.4.14)

NHK教育テレビのアニメ『おじゃる丸』のDVDを2枚購入した。
『おじゃる丸』は、いわゆる幼児から小学低学年の子どもたちを対象にした10分間の短いアニメで、月曜日から土曜日まで、毎日放送している。
欠かさず観る、とまではいかないけれど、時間があれば、そのときはかならず観るように私はしている。
わずか10分間の、他愛ないと言えば、きわめて他愛ない内容だ。再放送も、頻繁にされている。
だから、わざわざDVDを購入する必要はないかな? とも思ったけれど、好きなものはいつまでもそばにいて欲しい、という私の願望が、そして物欲が(笑)、お買い物を決断させた。
とりあえずということで、第1シリーズの1巻と、第5シリーズの1巻目をそれぞれ購入。
『おじゃる丸』のごく簡単なあらすじを説明すると、こうだ。
今から千年むかし、ヘイアンチョウ時代に 『坂ノ上おじゃる丸』という5歳の貴族の男の子がいた。わがままでのんびりやさんのくせに、変化のない日常に飽き飽きしていたおじゃる丸は、ある日、ひょんなことからエンマ大王のシャクをクスネテしまう。
実は、エンマ大王のシャクは、エンマ界を訪れる亡者たちの天国行きと地獄行きを決定するための、大切な道具だ。
シャクがないと、現世からどんどんと送り込まれてくる者たちの処遇を決められず、エンマ界はあっという間に亡者であふれかえってしまうだろう。しかし、シャクを気に入ったおじゃる丸は、エンマ大王にシャクを返そうとはしない。
エンマ大王との追いかけっこの末、おじゃる丸は「月のあな」というしかけに落っこちるという形で、現代にタイムワープする。なんか、『ターミネーター』みたい。
(;^-^ゞ
おじゃる丸は、タイプワープした先の、現代の月光町という街で、小学生のカズマという男の子といっしょにくらしはじめる。
いっぽう、エンマ大王も黙ってはいない。配下の「小鬼のトリオ」にシャク奪回の命を下し、現代の月光町へと出動させる。
と、以上が、『おじゃる丸』の物語の簡単な背景だ。
シャク奪回の任を受けた「小鬼のトリオ」は、鬼とはいえ、まだたった5〜7歳という、元気だけが取り柄の、うぶな子どもたちだ。
私はこの、「小鬼のトリオ」が大好きなのだ。
トリオの三人は、それぞれ名前をアオベエ、キスケ、アカネという。
エンマ大王のシャクをとりかえすため、おじゃる丸を追って月光町にやってきた彼等の苦難は、これはもう、最初から筆舌に尽くしがたいありさまだ。
例えば、小鬼のトリオがカズマの住むマンションの営造物に足を踏み込んだだけで、ものすごい剣幕の管理人が怒鳴り散らして追い払ってしまう。
「二度と来るな、コラ〜!」
可哀想に小鬼たちは、目から涙を吹きださせながら、わけもわからず走って逃げるのである。
おい管理人。相手、子どもだろうが……。小さな子どもに汚い言葉でどなったりして、恥ずかしくないのかよ。
しかし、彼は彼で立派に、管理人としての職務を遂行しているとも言える。
小鬼たちがおじゃる丸を追っておとずれた、ここが、月光町という街だ。なんというところだろう。エンマ界では、こんなことはいっさいなかったはずだ。土地という土地、空間という空間に見えない境界線を引き、こざかしい目つきで所有権を主張し、よそ者をまるで泥棒を相手にするような目で眺め、弱者を排斥するなどということは……。
アントニオ=ネグリは言う。

「(資本主義社会においては)価値は、貨幣の排泄物に過ぎない。(略)貨幣はひとつの顔しか持たない。支配者の顔である」

市場原理も資本主義の経済システムもまったく理解できていない、よその世界からやって来た小鬼たちの目には、人間たちが何と恐ろしく映ることだろう。
しかし、小鬼たちは、それでも元気だ。
仲がよくて、いつも助けあい、はげましあっている。
見知らぬひとが道端で困っていると、ついつい助けてあげたりもする。そのときも、他人に親切にしてあげているという考えは、小鬼たちには、ない。
小鬼たちは、助けあうのが嬉しくて、はげましあうのが楽しいのだ。
お金など、彼等には何の価値もない。家などなくとも、まったく平気だ。
他人の庭の片隅に好意でテントを張らせてもらい、そこで彼等は身を寄せ合って過ごしている。それでも小鬼たちは、私たちのようにみじめにはけっしてならない。
実は、お金がなくなることの一番の問題は、周囲に助けを請うばかりで、誰のことも助けることができなくなることだ。
誰のことも助けられない、誰のこともはげますことができない。そうなれば、これは本物の地獄だ。
無一文であることはすべての人間的価値を失ったと同義であるこの世界で、産まれたことを孤独に呪うしかない。
だけど、小鬼たちは、無一文であるにも関わらず、今日も周囲を助け、自分たちを心からはげましあうことができる。
すべての価値を貨幣に換算してしまう狂った世界に染まっていない彼等は、助けあうこと「そのもの」、はげましあうこと「そのもの」の価値を体現している。

パタパタと駆けて行く小鬼たちの輝く笑顔! ぴょんぴょんとはねたりして。元気いっぱい。
『おじゃる丸』のあるエピソードの中で、小鬼のキスケが転び、強く頭を打ってしまったときがあった。
大きなたんこぶを作って、泣き叫ぶキスケ。
残りのふたりが、
「卑怯でござる!」
とおじゃる丸とカズマに詰め寄ったとき、カズマの答えは、
「ぼく、何にもしてないんだけど」
だった。ボーとつったったまま、泣いている小鬼のことを見下ろして。
これが逆の立場だったら、小鬼たちは泣いている相手に対して、
「大丈夫でござるか?」
「痛そうだっピー」
「たんこぶができてるヨォ」
と口々に言いつのりながら、助け起こそうとするはずだ。
誤解のないように言っておくが、カズマはとっても、いい子だ。むしろ、カズマは、私たちが作り出した社会の被害者だ。
そして、エンマ界に生まれ育った、小鬼たちは、幸運だ。彼等にとっての対人関係とは、ひとことで言えばそれは友情だ。
石油産出国だけにねらいを定め、相手が「ヤダ!」って言っているのを無視したまま銃を担いで乗り込み、それを人道支援などとうそぶくのとは、わけが違う。
友情で世界と結びついている小鬼たちに比べて、人間である我々の、くらしの中での人と人との結びつきとは、ひとことで言えばそれは「利害関係」とよぶことができる。
消費者とサービスを提供するマシーンとの、むなしさきわまる関係だ。
資本主義世界において、消費者とは、ある種の権力を行使する者のことだ。その小さな灯火のような権力を行使する消費者の立場から眺める他人とは、貨幣と交換されるサービスを提供するための、単なる機械でしかない。
その関係の中で成立させようとしているのは、いつも「利益の増加」だ。
我々は、人間を物と見なすことによって機能している世界で今日を生きている。
ひとびとは、職場ではサービスを提供するあわれなマシーンとしての顔を持ち、タイムカードを押して職場から離れれば、今度は消費者という名の支配者の顔になる。我々は、支配者であり、同時に、支配されるものだ。
現代のジギルとハイド。
新人ウエイトレスが何度も注文を聞き返したとか、病院の薬の会計が遅いとか、電車のダイヤが5分遅れているだとか、そのようなささいなことで、やたら居丈高になるひとたちの何と多いことか。
本当に、お客さまは神様なのか?
我々は、人間同士の関係の中で絶えず貨幣を仲介させつつ、互いをひととしてではなく物として扱う、醜悪な“ひとでなし”だ。
自分の親や子を、妻や夫を、兄弟姉妹を、愛するひとを、物としか見ることができない悲劇こそが、ありふれた私たちの日常のすべてだ。
無理をきわめ、得体のしれない恐怖におののきながらすごす今日という日。
だけど、今日を、今をこうやって生きているって、本当はものすごく素晴しいことなのに!
私のはげましを必要としているひとが隣の町にいるってことは、なんと素敵なことだろうか!
私たちはこれまでずっと間違っていた。悔やんでも悔やみきれないが、過去は、過ぎたことだ。今からやり直そう。小鬼たちのように生きるのだ。
……。
しかし、『おじゃる丸』を観て、ここまで小難しいことを言うのは、ワシくらいかもなあ。
(;^-^ゞ
さて。
本当に大好きな小鬼のトリオだけど、ちなみに、私の一番のお気に入りは、アカネだ。
アカネは、6歳の鬼の女の子。
他のふたりのメンバーに比べて、ほんの少しだけ恥ずかしがり屋さんで、ちょっぴり人見知り屋さんだ。
本当のことを言うと、私は、『おじゃる丸』第5シリーズの第38話『アカネと愛ちゃん』というエピソードを探している。
再放送ぶんを観たことがあるのだが、このエピソードは、残念ながらDVD化されていないようだ。
愛ちゃんとは、カズマのママの名前だ。その愛ちゃんが、おじゃる丸の敵であるアカネをお買い物にさそう。どうしてアカネなのか。パパもカズマもおじゃる丸も、愛ちゃんの女の子の買い物に付き合ってくれないので、そこでアカネに白羽の矢が立った、と、確か、そのような流れだった。
女どうし、愛ちゃんとアカネはお買い物を楽しむ。
お洋服を選んだり、パフェを食べたり。
心から楽しそうなアカネを遠巻きに確認するアオベエとキスケ。自分たちだってパフェが食べたいなどとは彼等は考えなくて、アカネがあんなに嬉しそうにしていて、本当によかったと思うのであった。
あ〜、3人まとめて、うちの子におなり! と思わず叫んじゃうくらいに、かわいい。




我らの一番の気がかりは(2004.4.13)

イラク南部で拉致拘束されていた、英国人男性が解放された。
解放された彼は、妻との電話ではまず、サッカーのプレミアリーグの試合結果を尋ねたとのことです。
命からがら帰ってきて、最初の言葉がサッカーの試合結果だって。人間らしいと言えばらしいような。
(;^-^ゞ
そうだ。いいこと思いついた。
ここはFIFAが平和のために一肌脱いで、
「イラクに軍隊を送り込んだ国は、ワールドカップ予選には参加できない」
という宣告を出せばよいのではないか。
アメリカは平気かもしれないけれど、日本では大騒ぎだで。
スペイン、イギリスでは、もう上を下への大暴動。
革命が起きちゃうな。
(^_^;)
私たちのような者にとっては、民間人の誘拐は他人事でも、サッカーは自分自身に降りかかることだから。
ワールドカップがなくなる! イラクの国がどうなろうが、イラクのひとたちがどうなろうが、ワールドカップには替えられない、それが私たちの本音だ。
情けない話しだが、それが現実だし、人間そんなに急に変わりもしないだろう。
できることから、ひとつひとつ。
「みなさ〜ん! 
ドンパチやってるヒマなんてないよ、今週もサッカーの試合がある」
サッカーに夢中になって、それでいいんだよ。
FIFAさん、私のアイデアはどうですか?




「進め一億、火の玉だ」(2004.4.12)

イラクに潜入して取材活動を続けてらっしゃる森住卓さんからの情報によると、アメリカ軍はイラクの男性たちを雇って、イラクの女性たちをレイプさせているそうです。
なにやってんだよ、お前ら……。
アメリカの思惑としては、ひとつには、イラクのひとたちが互いに反目しあうように仕向けたいということがあるだろうし、もうひとつには、イラクをはじめとするアラブの方々が民族的にいかに凶暴で残忍で非人間的であるかを、世界に印象づけたいということもあるのではないか。
マッチポンプは、アメリカのお決まりの外交手段だ。自分でつけた火災が大きくなりすぎて消しきれず、ヤケドを負うのもお決まりだけど。
そして私は、再びしゃっくりが止まらない。
ひっく。
そんな私たちであるが、やはり、ずうずうしいと言われようとも、それでも、誘拐拉致されている民間人3名の無事を祈らずにはいられない。
ひっく。
正直、眠れない。頭は白髪がいっぱい。一週間前まで一本もなかったのに(ガックリ)。
救出の速報が流れたときには、涙がこぼれた。それが誤報だったとは……。
この日記を書いている間にも、新しいニュースが飛び込んでくるのではないかと、ドキドキする。
何とか無事に救出されて欲しいと願っているのは、私ひとりではない。
『人質3人の救出と自衛隊のイラク撤退』を求める緊急署名が、15万人ぶん(!)集まったという。しかし、いっぽう、
「世間を騒がせたことを謝れ」
「国に迷惑をかける気か」
などといった内容の電話やメール、手紙が、御家族の家などに怒濤のごとくに押し寄せているという。
ひっく!
彼等なりの正義感なのだろうけれども、すんごいことするなあ。
まあ、つい最近まで、「欲しがりません勝つまでは」とか、「進め一億、火の玉だ」とか、「天皇陛下ばんざ〜い!」とか言っていた国だもんね。
ひっく。
あ、「天皇陛下ばんざ〜い!」は今も言っているのか。
ひっく、ひっく、ひっく、ひっく、ひっく!
でもさ、アラブのひとたちが「アラーの神よ!」と言うその気持に、どうして彼等は共感しないのだろう? 深いところで、理解しあえそうなものなのに。それが不思議だ。

 



フンコロガシが持ち運ぶもの(2004.4.10)

「人間って、フンコロガシという昆虫に似ている」
と、うちの弟が言いだした。
フンコロガシは、ずんぐりとした体つきのコガネムシだ。
牛の糞を自分の体以上の大きさに団子状に丸め、それを逆立ちした姿勢で、後ろ足で押して運ぶ。奇妙な習性を持つ昆虫だ。
汗水たらして後生大事に持ち運びながら、それが100パーセント牛のうんこだというところが、人間と似ているというか、そっくりじゃないか。と、弟は言う。
いやあ、納得しちゃったなあ。
みなさんご存知のとおり、我々は自衛隊をイラクに派遣して、おかげさまで民間人3名がとばっちりをうけ拉致監禁された。
「自衛隊を撤退させなければ、3人には死んでいただく!」
と犯人グループは声明を出しているらしい。
さて、どうする。
自衛隊の派遣となれば、民間人の犠牲なんて予想できたこと……というか、犠牲が不可避なのは、私にだってわかっていた。私にだってわかっていたことを、日本のお偉いさんたちが、わかっていなかったはずはあるまい。
わかってやっているんだから、おそらくは、撤退ということにはならないだろう。
「日本には、国際社会の一員としての責任がある」のだそうだ。
ぐしゃ! ワ! うんこ、ふんじまった〜!!!
国際社会の一員としての責任を本当に自覚しているなら、国連のおっしゃっていることを無視して、自衛隊を派遣したりするなよな。
国際社会は、「たのむから自衛隊を派遣しないでね、ややこしくなるから」と言ってるのよ。
私たちの言う国際社会の期待とは、結局は、“アメリカの御意向”ということにすぎない。
読売新聞、毎日新聞、朝日新聞は、4月10日付けの朝刊で、自衛隊の撤退に応じるべきではないとの社説を発表している。
朝日新聞の社説から--
「撤退には応じることができない。つらい選択だが、私たちはそう考える」
だってさ。
いやあ、堂々としたもんだ! つらい選択って、具体的には、死ねってことね。
そのときどきの都合で重くなったり軽くなったりする人命。
新聞の見出しには、「犯人よ、殺すな」の文字。3名の民間人の命さえ踏み越えて、やり遂げたいイラクでの人道支援。
石油産出国での人道支援には、私たちって鬼のように熱心なんだよな。
むこうの新聞には、「アメリカとその同盟国よ、私たちを殺すな」と書いてあるんだってば。そこのところから目を背けたまま、こちら側から「犯人よ、殺すな」つったって、聞き届けてはくれないよ。
テレビをつけたら、巨人が勝ってるだの、阪神が負けているだの、お笑い番組がえんえんと流れているだの……。
イラクのひとたちがどうなってもかまわない、拉致されている3名の民間人がどうなってもかまわない、というような態度で世界と向き合って、今日もうんこを持ち運ぶ。

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