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誕生日なのだ(2004.7.2)

今日は私の誕生日だ。
しかし、仕事がトラブル続きで、誕生日についてあれこれ考える余裕がない。上を下への大パニック状態だ。
トラブルっちゅうのはね、精神にきますんですわ。
あげくの果てにパソコンは壊れるわ、夏風邪はひくわ、聖和大学のレポートを作成せねばならないわ、Jリーグは気がついたらマリノスが優勝するわ、といったありさまで、今はとにかく、眠りたいの一心だ。
しかし、眠れない。
仕事、どっさり。
人生っつーのは、スポコンで出来てるんだなあ、と、ひとり納得。
世界は体育会系のものなのね。
「死ぬ、死ぬ」
と15分おきに叫んでいるが、口がきけるうちはまだ死なない。
何とか生き延びて、9月には、マイケル=ムーアの映画『華氏911』を観に行かなくちゃいけないもん。
p( ´∇` )q  ガンバ
食欲がまったくなくなってきて、少しずつ痩せてきているのが、思いがけず、うれしい。
しかし、体重が減っても、肝心の体脂肪率がぐんぐん上昇している。
健康に良くないなあ。
今日はこれから、聖和大学に絵本の勉強に行ってきます。
たまには、外にも出んとのう。
(;^-^ゞ




『わたしのせいじゃない』という絵本(2004.6.22)

レイフ=クリスチャンソンの『わたしのせいじゃない』という絵本を、この日記で取り上げたことがあるだろうか?
取り上げた気もするし、まだのような気もする。
非常に素晴しい絵本なので、取り上げていないならば、ひとこと書いておかなければならない。
レイフ=クリスチャンソンは、スウェーデンのひとだ。彼は、スウェーデンの社会科の先生から、教育長などをへて、今は作家業をしている。
スウェーデンの社会科の教科書の素晴しさは、この日記で既に何度か書いてきた。和訳されたスウェーデンの社会科の教科書が出版されているから、日本語で読むことが可能だ。私はそれを読んで、これ以上ないほどの深い感銘を受けた。
もしも、地球上でもう一度人間をやることが許されるのならば、次にはスウェーデンで産まれてきたいものだと思うほどに。
これ以上ないほどに複雑かつ高度な社会生活を営む動物である人間の子どもたちにほどこすべき、社会教育の定本として、社会科の教科書はある。その教科書の、日本におけるできとスウェーデンのできとを比べたとき、そのレベルの違いにがく然ともしたし、一種の畏怖のような思いさえ抱いたのだ。
少なくとも、学校教育における社会科のお勉強という面において、スウェーデンの子どもたちは日本の子どもたちよりもずいぶん恵まれている。
そしてなによりも、偏差値などというほとんど無価値な順列づけに追いたてられつつ、苦痛にさいなまれながら学んださまざまな知識が、学校を出たとたんまったく役にたたないというような状況が、日本の教育システム全体にはびこっている。
曲がりなりにも日本は、いわゆる先進諸国と呼ばれる国なのだから、もう少ししっかりした社会科の教科書を子どもたちに与えるべきだ。それが無理なら、子どもの育児はぜひスウェーデンで行うべきだろう。私は、自分が真っ白な子どもとしてスウェーデンの教科書に出会い、その授業を受けたいから、ぜひもう一度、生まれ変わってみたい。
輪廻転生というものがあるのかどうか知らないけれど。
ちなみに、宇宙に飛びだして転生することを許していただけるなら、これはぜひ、アーシュラ=K=ル=グィンの小説『所有せざる人々』に出てくる、惑星アナレスに産まれたいのだけれど。
などとこれは脱線。絵本の話だった。
ネタをばらさないように気をつけながら、紹介しよう。
この絵本はもともと、学校の教材として作られたシリーズの中の一冊のようだ。スウェーデンの学校には、オリエンティーリング科という科目があって、この絵本シリーズはその教材だったのだそうだ。日本語で翻訳出版されているものを数えると、14冊ある。この『わたしのせいじゃない』は、シリーズ番号では6番にあたる。
この『わたしのせいじゃない』という絵本は、いじめの問題を扱っている。
物語には、クラスにいじめられている子どもが登場する。その子は、悲しげにぽろぽろと泣いている。
しかし、泣いているその子をいじめる側にも、それを傍観している側にも、それぞれ、それなりの理由がある。
それらの理由を、最終的にひとことで要約するなら、「わたしのせいじゃない」となる。
自分の身の回りにわき起こるさまざまな問題に対して、「わたしのせいじゃない」と答えるのは、実は日本人のもっとも得意とする責任回避パターンだ。自分たちの存在の土台であるこの社会において、次々とわき起こる大小の問題に「わたしのせいじゃない」と答えさえすれば、すべての責任から罷免されてしまう。
つまり日本の大人たちの社会的態度は、スウェーデンの小中学生とほぼ同程度であることが、絵本からばれてしまう。
だが、社会というものは単なる言葉で、実は実体がない。我々ひとりひとり・個人個人が集まって作り出した共同体を、言語上、便宜的に社会と呼び習わしているに過ぎない。だから、小学校でのいじめからイラクでの戦争まで、すべての社会問題はそこに居合わせた個人個人が作り出したものだ。
目の前で起きている問題の責任を、個人個人が実体のない社会に転嫁することによって起きる最終的な破局は、極めて深刻で重大なものだ、と、この絵本は訴えかける。
衝撃のラストは、読んでのお楽しみだ。
絵本の製作にたずさわっている誰もが、このような絵本を一度は作ってみたいと願っている、そんな絵本だと思う。
ともかく、スウェーデンは、これから要注目だ。




ル=グィンのお父上のこと、お母上のこと(2004.6.21)

梅田の古本屋でアーシュラ=K=ル=グィンの文庫本を見つけた。タイトルは『幻影の都市』、初期のSF作品だ。
絶版本なのでおそるおそる値札を見ると、なんと100円だった。
おー。
古本屋さんもちょくちょくのぞいておかなければいけませんね。
東京に住んでいたころにどっさりと買い込んでいたル=グィンのSF作品は、引っ越すときにほとんど紛失してしまった。
我ながら、アホだ。
だから、今、せっせと買いなおしてる。
そう言えば、ル=グィンのお母上の執筆された『イシ』も、読まないうちに紛失してしまった。
つくづく無念だ。
実はこの本は、手塚治虫センセが漫画化されたものを読んだことがある。
1911年のカリフォルニアにあらわれた野生のインディアン、ヤヒ族最後の生き残りイシと、文化人類学者アルフレッド=クローバーの交流を綴ったノンフィクションということだ。
文化人類学者のアルフレッド=クローバーは、ル=グィンのお父上だ。
手塚治虫センセの漫画にも、当然、アルフレッド=クローバーは登場する。
あれは、手塚治虫センセの短編集のどれかに、収録されていた。『タイガーブック』だったかな。物置のダンボールのどれかに詰め込まれているはずだ。
せっかくだから、弟に探してもらう。……出てきた出てきた。
ほお、これがル=グィンのお父上か、などと親近感を覚えたりする。もちろん漫画なので、ル=グィンのお父上がこんな顔をしていたかどうかはわからない。
漫画を読むかぎり、イシを未開人や野蛮人と見下すようなひとたちとは、アルフレッド=クローバーは対極に位置する人物だったようだ。
『イシ』はノンフィクションなのだから、実際のアルフレッド=クローバー、そしておそらくその妻も、漫画で描かれたとおりのひとたちだったのだろう。
1911年という時代を考えれば、アルフレッド=クローバーが知性と良心と勇気のひとであったことは、想像できる。
う〜ん、この親にして、この娘ありだよなー。
あ、ル=グィンのことね。
血筋というよりも、家庭環境なんだろうな。
ともかく、素晴しい一家です。




21世紀の『ニュースの時間です』(2004.6.17)

♪ゆあ〜しょっく♪あいでそらが、おちてくる〜♪
(以下の日記は、『北斗の拳』のナレーションふうに読みあげてください)。

『ニュースの時間です』というスタージョンの短編小説を読んだあとに、現実のニュース番組を観る。
もちろん、ニュース番組を最後まで観とおすことなど、とうていできはしないが。
そんなことをしたら、発作的に、ガソリンを頭からかぶってしまいたくなること、うけあいだからだ。
私は、けっしてマゾヒストではない。
しかし、だ。
マゾではなくとも、何かの拍子にテレビのニュース番組を観てしまうことも、ときにはあるのだ。

◇テレビから得た知識その1◇
うつ病などの精神障害で自殺した人の半数が、月に100時間以上の残業をしていたことが、厚生労働省研究班の長時間残業調査でわかったのだそうだ。
きゃっほ〜〜〜〜!! 馬鹿みたいだろ?
主任研究者の黒木宣夫東邦大佐倉病院助教授は「長時間残業と精神障害発症は因果関係があると考えられる。企業は専門の医師の診療を受けやすい環境をつくるなど精神面でも職員の健康に配慮していく必要がある」と訴えている。
ふ〜ん。なるほどね〜。
専門の医師のカウンセリングを受ければアラ不思議! 自殺一歩手前のよれよれが、あっというまに元気いっぱい。24時間働けますの、ジャパニーズビジネスマンだ。
きゃっほ〜〜〜〜!! 馬鹿みたいだろ?
……医師のカウンセリングの前に、そもそもの原因の残業を減らしてやれよ。
月に100時間も残業をやらかせば、そりゃあ死にたくもなるって。
働かざるもの食うべからず? ケッ。
100時間も残業しなくちゃ食っていけないというのなら、そうまでして生きていたくないよって、普通の神経してりゃあ思うのよ。
そういうことでしょ? 自殺者の半数という数字を見てみろって。
でね、自殺したひとたちに言いたいんだけど、死ぬくらいなら、働かなくていいですよ。マジで。
そうまでして働かなきゃいけない理由がどこにある? いったい、誰のために働いているの? よおく、考えてみ?
仕事なんてほっぽって家で寝てようよ。
こんな世の中、はみだしたり、笑われたり、うしろ指さされたり、落後者のらく印を押されても、逆にせいせいしたくらいに思っていて、ちょうどいいんだよ。
働かざるもの食うべからず、ゴモットモ。
けっこうじゃございませんか。
どうせ死ぬんなら、みんなで餓死しようぜ。

◇テレビから得た知識その2◇
小泉首相は、自衛隊の多国籍軍の参加を勝手に決めてきました。
きゃっほ〜〜〜〜!! 戦争だ〜い!
ホンモノの馬鹿みたいだろ?
21世紀になっても、自国の憲法さえ守れず、新手の植民地政策ですか……。
がはは。
テレビ報道から正気というものをほとんど感じられなくなってから、ずいぶんになることに、いま気がついた。
ステキな時代だぜ。




『ニュースの時間です』というスタージョンの短編小説(2004.6.14)

『ハヤカワSFマガジン』7月「異色作家短編集・別巻特集号」を読んだ。
シオドア=スタージョンの短編が、目当てだ。
私は、スタージョンの大ファンで、スタージョンの作品を見かけたら、とにかく手に入れることにしている。
SFマガジンに掲載されている短編作品のタイトルは『ニュースの時間です』となっている。未読だ。
『ニュースの時間です』とは、ものの見事にいいタイトルだ。スタージョン的不吉さに満ち満ちている。ページを開く前から、これは期待できそうな予感がする。
この『ニュースの時間です』は、ロバート=A=ハインラインが考えたプロットを元に、スタージョンが執筆した短編だそうだ。だから、厳密に表記し直すと、原案・ロバート=A=ハインライン、執筆・シオドア=スタージョンということになる。
ハインラインとスタージョンの組み合わせなど、想像もできなかったから、純粋に驚いた。この驚きは、例えるなら、石原慎太郎氏のプロットをもとに、井上ひさし氏が小説を書いたと聞いたようなものだ。
こりゃ、驚く、驚く。
嫌な予感がふとよぎる。こんな、水と油の組み合わせじゃ、物語のスピリットを支える細胞同士が反発しあって、分離してしまうのではないか、と、心配になったのだ。
しかし、それは杞憂だった。
嬉しいこと(?)にハインラインらしさはどこにもなくて、完璧にスタージョン作品になっていた。
ラジオや新聞、テレビといった、あらゆるメディアが流しているニュースを、熱心にチェックしつづけることを日課にしている男、という、どこにでもいそうだといえば、どこにでもいる男の物語だ。
しかし、日々のあらゆるニュースをチェックするという行為自体が持つ、微妙かつぬぐいがたい不吉さのようなものが、最終的には、何とも奇妙なラストへと読者をいざなっていく。
物語の終盤、ジョン=ダンの詩の一節が引用される。この詩の一節が、この短編の肝だ。

「いかなる人の死もわれを傷つける。われもまた人類の一員なれば」

スタージョンファンなら、もうおわかりと思う。いつものスタージョンぶしを、この短編にも期待していいことを、すでにご理解していただけているだろう。
例によって、例のごとく、テーマは、「愛」だ。
さらりと平気な顔をして書いた最後の一行が、見事だ。ネタバレになるから、詳しい話はしないけれど。
基本的には、いつものスタージョンでありながら、あいかわらずのエキセントリックさを保持したまま、ロマンチズムの値を下げ、全体的にはネガを反転させたような読後感になっているのが、面白い。




『Z GOES HOME』と『Snow White』という2冊の絵本
(2004.6.10)

洋書絵本を2冊購入してしまった。JON AGEEの『Z GOES HOME』と、LAURA LIUNGKUISTの『Snow White and the Seven Dwarfs』だ。
JON AGEEの『Z GOES HOME』という絵本から、さっそく読みはじめる。
これは、動物園に務めているアルファベットの「Z」の文字が、一日の仕事を終え、文字通り(本当に文字通り)帰宅するまでの物語だ。
アルファベットの「Z」の文字がどうやって家を持ったり、歩いたり、仕事に就いたりするのですか? などとは、決して言ってはいけない。擬人化された「Z」の文字が生きて、もうひとつの時空間を動き回る。絵本を読む私は、その時空間に、ほんのいっときとはいえ、ひきこまれ、さまよう。絵本を読むことの真のだいご味を、私は堪能する。
絵本は、大扉も何もなく、いきなり始まる。
「Z」の勤め先はCITY ZOO(市営動物園)。市営動物園の看板にZOOという単語を形作るために、今日も一日、看板に張り付き続けた。
高い看板からはしごを降りて、「Z」の今日の仕事は終わりだ。檻の中の動物は、既に眠りについている。そして、「Z」が動物園に背を向けて歩き出したとき、ページいっぱいに“JON AGEE『Z GOES HOME』”のタイトルロゴがあらわれ、ようやく絵本は大扉だ。
ここから、物語はいよいよプロローグから本編へと突入する。
このあたりの、いかにもアメリカといったような、大胆に映画的なページ構成が、楽しい。
「Z」は、帰り道でALIEN(宇宙人)とすれちがい、BRIDGE(橋)をわたり、途中でCAKE(ケーキ)とDOUGHNUT(ドーナツ)を食する。
この絵本は、アルファベット絵本だ。
アルファベットの「Z」の文字が擬人化されて、世界を見て回る、というようなアイデアに、私は目がない。
絵画的には、「Z」が巨大なケーキとドーナツを食べている見開きページが、とにかく圧巻だ。
もう一冊の『Snow White and the Seven Dwarfs』は、みなさんご存知、グリム童話の『白雪姫』だ。言わずもがなだけど、「アンド ザ セブン ドワーフズ」は、「白雪姫と七人の小人」ということになる。
イラストレーターのLAURA LIUNGKUISTさんは、スウェーデンのかたのようだ。しかし、絵本は、ニューヨークで発行されている。
これまで数多く絵本化され、映画化された『白雪姫』のグラフィックとしての決定版は、少なくても私の周囲では、ディズニーの描いたものということになっている。
ディズニーの描いた『白雪姫』が本道であり、その他のものは一種の派生物、ないしはキワモノ的印象を抱いているかたが、これはかなり多くいらっしゃる。
それは、ディズニーの『白雪姫』の完成度の高さを意味するのだけれども、『白雪姫』には、まだまだ別の絵画的なアプローチの仕方もあるはずだ。
そのひとつの答えとして、LAURA LIUNGKUISTの『Snow White and the Seven Dwarfs』は出版されたということらしい。
デザイン的要素を強く打ちだして、非常に新鮮な絵本だ。日本語訳が出版されていないことを、残念に思う。




『フルバ』発掘、『ブラックジャック』読破
(2004.6.9)

家の掃除をしていたら、ダンボールの中から、片づけなくしていた高屋奈月せんせの漫画『フルーツバスケット』の1〜8巻が出てきた。
もう1年ほど探しても出てこず、買い直さなくてはならないかと観念しはじめていたところだった。
よかった。
例によって掃除を中止し、1〜8巻までを再読する。
やはり、面白い。
主人公、本田透ちゃんのお説教が炸裂するたびに、ヨヨヨと泣きながら読み進む。そう、『フルーツバスケット』もまた、私の大好きなお説教漫画なのだ。
もはや、掃除どころではない。
(;^-^ゞ
こういうお説教漫画は、あざとく感じてしまってはもうダメで、作者の言葉のセンスが問題になってくる。読んでいる読者の胸に、お説教がストンと落ちなければ、反発ばかりを買ってしまうことになりがちだ。しかも、現代人は、みながみなそれぞれ人生に一家言あるから、そう簡単には納得してもらえない。
ひねった手順で、お説教を展開させないと、だめなのだ。
このあたりの、お説教の咽喉越しのよさのようなものに、非常に感心させられることの多い漫画です。
『フルーツバスケット』といっしょに、手塚治虫せんせの『ブラックジャック』1〜24巻も発掘された。
うわあ、ひさしぶりだ。当然、こちらも読破だ。
『ブラックジャック』をキッチリ読み直すのは、いったい何年ぶりだろう?
子どものころ、何十回と読み返した漫画だ。そして、もちろん、いま読んでもやはり面白い。
「しかし、手塚治虫せんせは、絵がうまいナア」
などと、今さらながらに、感銘を覚える。
絵がうまい。お話は抜群に面白い。文句などあろうはずもない。
実を言うと、『ブラックジャック』を面白くないと言う人間には、私はまだ出会ったことがない。まだ読んだことがないか、読んで面白いかの、ふたとおりの反応しか私は知らない。それをさらに上から、こうやって私が面白い面白いと言いつのっても、何やらちょっと間の抜けた感じは否めない。
ブラックジャックとは、架空の天才外科医の名前だ。
手塚治虫せんせは、『ブラックジャック』の前書きに、
「医者が主人公のまんがは、あんまり多くありません。しかし、人の命をあずかっている重大な仕事ですから、そのドラマはいくらでも作れるはずです」
とおっしゃっている。
作るだけなら、いくらでも作れるかもしれないが、これほど上質のエピソードを次から次へと発表するのは、これは神懸かりと言ってもいい。
しかも、『ブラックジャック』は、週刊誌連載だったのだ。毎週、毎週、よくもまあ、とあきれるしかない。
ともかく、かくのごとしで、『ブラックジャック』は単行本収録作品のほとんどが、粒ぞろいの傑作だ。
その中から一本、私の個人的な好みで、比較的シブめの第70話「ネコと庄造と」をご紹介しよう。
がけ崩れによって家族を失い、自らも脳に障害を負った、ある男のエピソードだ。
男はその脳の障害から、たまたま出会った野良ネコの母子を、妻子だと信じ込んでしまっている。
実際は、愛する妻も、ふたりの子どもも、がけ崩れで死んでしまっている。だが、男は、その事実を受け入れることができない。
悪い魔法使いにだまされたおとぎ話の主人公のように、男は、幸せな家庭生活をネコたちと営み続けている。
「カズコ、このごろ学校の成績はどうだい?」
「ニャーゴ」
などという会話を、晩ご飯を囲いながら、男は繰り広げる。
母ネコを洋子という妻の名前で呼び、
「おそくまで働いてないで、テレビでもごらん」
と声をかける。妻と寄り添いあってテレビを観ている時間が、男には何よりも大切なのだ。
もちろん、何ということもない普通の家庭の日常風景は、彼の気がつかないところで、とうに失われてしまっている。失われたまま、その愛情を、男はネコに注ぎに注ぐ。
ネコもまた、ネコであるというどうしようもない限界の中で、男の愛情に応える。
このあたりは、手塚治虫せんせの圧倒的な画力が大きくものを言っている。ネコと人間の誰も割り込めないような固い結びつき、パートナーシップが、胸にせつなく響くのは、人間の男に尽くすネコ、というちょっとありえない出来事を絵画的、漫画的にいともあっさりと描写しきってしまう、手塚治虫せんせの力量のなせる技だ。
こうして彼等は彼等のとざされた世界の内側で、幻影の中で幸福に暮らしている。
そこに、天才外科医のブラックジャックが登場する。
ブラックジャックは、悪い魔法を解くように、男の脳障害を外科手術によって取り除く。男の精神は、現実世界へと舞い戻り、妻と子どもたちの死を知る。それと同時に、ネコたちと暮らしていた記憶は男からすっかり失われ、男にとってネコたちはあくまでも単なるネコとなってしまう。
ネコはもはや、妻でも子どもでもない。健全さを取り戻した男の精神には、それが理解できる。
一時期は妻と信じて愛していたネコを、男は邪険にはねつける。戸惑うネコたち。
ネコたちは振り払われても振り払われても、おそるおそる男のあとをついてまわる。しかし、妻と子を失って憔悴しきった男は、ネコたちに冷たくあたるばかりだ。
大声で追いたてられ、振り払われたびに、物陰に逃げ込むネコたち。
背中に緊張を走らせて、それでも抜き足差し足と、何度も男に近づこうとするネコたちの所作を、手塚せんせは、ここでも見事に描写しきっている。
愛する家族を失い、うなだれている男を見つめるネコの瞳に、涙が光る。
もう、このあたりから、私は泣いて泣いて、ページがすっかりにじんでしまう。
男と、ネコたちは、最後にはどうなるのか。
それは、読んでのお楽しみだ。
とまあ、この調子で、漫画を読んで興奮して、夜が更ける。
掃除はどうした? とふと素にかえり、自己嫌悪だ(笑)。




『エリック=カール絵本の世界展』の感想(2004.6.3)

『エリック=カール絵本の世界展』に行ってきた。場所は、大丸梅田店の15階だ。
エリック=カールとは、一体、誰か?
エリック=カールを知らなくても、絵本『はらぺこあおむし』は、おそらく、知らないひとはいないだろう。エリック=カールは、その『はらぺこあおむし』の作者だ。世界中で、とてつもない売りあげを記録した絵本だ。今も売れ続けている。
売れた絵本が良い絵本、とは、私は言わない。だが、『はらぺこあおむし』は、間違いなく傑作絵本だ。
世代を超えた『はらぺこあおむし』の人気は、貨幣経済社会のこの場所で、価値のある絵本がその価値のままに、正当に評価されたということだ。
『はらぺこあおむし』は、小さいころの弟が大好きな絵本だった。
私はというと、レオ=レオニのほうが、好きであった。というのも、エリック=カールと
レオ=レオニの類似点が、子どもながらに気になって仕方がなかった。
レオ=レオニは、『あおくんときいろちゃん』や、『スイミー』の作者だ。
このふたりの作る絵本は、子ども心にも、はっとするほど似ているように思えた。
剽窃ということではまったくなくて、絵やストーリーを支えるスピリットというか、ソウルというか、魂が、近いのだ。
『はらぺこあおむし』もそうだし、私の大好きな『ごちゃまぜカメレオン』などは、もうひとりのレオ=レオニが製作した、と言っても言い過ぎではないくらいに、そのスピリットに類似点がある。
まず、お説教絵本であること。
そしてそのお説教の質が、犯罪者の指紋を合わせたときのように、レオ=レオニのそれとピッタリ重なるのである(例が悪いね、ごめん)。
今回の展覧会により、ふたりが親友であったということが判明し、謎はようやくとけた。
エリック=カールは、直接、レオ=レオニから影響を受けていたのだ。
オーケー、オーケー。
ようやく、私は納得できた。
こうして世界はつながりあっている。影響しあっている。その影響がこのように美しく、建設的で、しかも世界に大きな影響を与え続けているのを知るのは、何よりも嬉しいことだ。
今日は、体調が悪く、その点だけが残念だった。
立っているのが、辛くて辛くて。
展覧会の販売コーナーで、数枚の絵はがきを選び、一冊だけ絵本を購入した。
『ことりをすきになった山』、文はアリス=マクラーレン、絵はもちろんエリック=カールだ。
この絵本は、愛について語った絵本だ。
私は、見かけによらずこれでもロマンチストで、愛についてキッチリ語られている作品を見つけると、ついつい買ってしまう。
エリック=カールの数多い著作のなかでは、あまり有名な作品ではないと思うが、愛の切望を描いて、なかなかの傑作だった。




映画『死ぬまでにしたい10のこと』の感想(2004.6.1)

『死ぬまでにしたい10のこと』という、スペイン・カナダ合作映画を観た。
本当に素晴しい映画だったので、私のお友だちの全員にご紹介したくて、この日記を書いている。
製作総指揮は『オール・アバウト・マイ・マザー』、『トーク・トゥ・ハー』のペドロ=アルモドバル、監督はイザベル=コヘットという女性の若手監督だ。
ペドロ=アルモドバルは、みんなもうご存知のとおりスペイン人だし、ネットで調べてみると、イザベル=コヘットもバルセロナが出身地の、スペインのひとだ。脚本、演出、撮影までをスペイン人が担当した、実質上のスペイン映画ということらしい。
『死ぬまでにしたい10のこと』は、私の観る2本目のスペイン映画だ。
映画の主人公は、アンという名前の23歳のヤンママだ。
子どもは娘がふたり。夫は失業中。そして、アンは、子宮ガンで余命2ヶ月だ。
この映画で語られるのは、ガンの告知からの2ヶ月間の、アンの人生の物語。
「死ぬまでにしたい10のこと」とは、彼女が彼女自身のために書きだしたリストだ。このリストをもとにして、彼女は彼女の残りの人生をどう生きるかの指針を明確にうちだし、それを実行していく。
残りの時間はわずかだ。アンだって、死への恐怖心がないわけではないけれども、今は、すべてが緊急を要する。おじけづいたり、逃避している場合ではない。10項目にのぼったリストは、具体的かつ必要不可欠なものにしぼられた。
1.・Tell my daughters I love them several times a day.
(娘たちに毎日「愛してる」と言う。)
2・Find Don a new wife who the girls like.
(娘たちの気に入る新しいママを見つける。)
3・Record birthday messages for the girls for every year until they're 18.
(娘たちが18歳になるまで毎年贈る誕生日のメッセージを録音する。)
4・Go to Whalebay Beach together and have a big picnic.
(家族でビーチに行く。)
5・Smoke and drink as much as I want.
(好きなだけお酒とタバコを楽しむ。)
6・Say what I'm thinking.
(思っていることを話す。)
7・Make love with other men to see what it is like.
(夫以外の人とつきあってみる。)
8・Make someone fall in love with me.
(誰かが私と恋に落ちるよう誘惑する)
9・Go and see Dad in jail.
(刑務所にいるパパに会いに行く。)
10・Get some false nails( and do something with my hair).
(爪とヘアスタイルを変える。)
以上が、彼女の「死ぬまでにしたい10」の項目だ。映画を観た人の中には、
“夫以外の人とつきあってみる”というような目標を持ち、それを実行する主人公の行動に対して、首をかしげるひともいるようだ。私は、彼女が、悪びれることも罪悪感に尻込みすることもなく“夫以外の人とつきあってみる”と言ってみせたことに、敬意に近い気持すら抱く。
彼女の人生は、彼女のものだから。彼女は、妻であり、母であり、同時にひとりの女でもある。
彼女は、妻や母という社会的役割の枠を超えた、ひとりきりのユニークな人間だし、それは、母であることや、妻であることと、必ずしも対立するものではないはずだ。人間とは、多面的な存在なのだ。
10のリストの中に、“夫以外の人とつきあってみる”という項目と、“娘たちに毎日「愛してる」と言う”というような項目が混在していることに、この映画の女性脚本家の、バランス感覚の見事さを私は見る。
さらに言えば、“刑務所にいるパパに会いに行く”と“爪とヘアスタイルを変える”という項目にも、私はうならせられる。
このリストを作ってみせたというだけで、この映画の脚本家の力量の大きさがわかる。
そして、生まれるということは、いつか死ぬということだ。余命が2ヶ月なのか2年なのか、50年なのかはわからないけれど、死はかならずやってくる。その死という人生の一大イベントを、日常に根を下ろしたまま、きっちりととらえなおし、上質のユーモアさえ交えながら語ってみせたこの映画のやりかたは、人生に対する素晴しいアプローチだし、何よりも、極めて本質的で女性的だと思う。
製作総指揮のペドロ=アルモドバルは、この映画の脚本を最初に読んで、
「ぜひ監督をやらせて欲しい」
と、脚本を書いたイザベル=コヘットに頼み込んだということがあったらしい。
しかし、最終的には、イザベル=コヘット自身がメガホンをとって、映画は撮影された。結果として正しかったと、ペドロ=アルモドバルはのちのインタビューで述べている。ペドロ=アルモドバルのその判断は正しかったと、映画を観終わった私もやはり賛同する。
これは、女性のクリエイターによる、女性のための映画だ。そして、女性という存在に共感し、または共感したいと思っている男性たちのための映画だ。
とことん女性的で、繊細なまでに美しい映画を、とくとご鑑賞あれ。




「テレビがどう作られるかわかった」生徒たち(2004.5.31)

TBSのテレビニュース番組『ニュース23』の討論番組に出演した高校生が、実際の内容と違う印象を受けてしまうように編集された放送内容に怒っているらしいですね。
討論の内容は、憲法の改正問題
そのとき出演した中高生38人のほとんどの意見は、護憲派だったそうなのだが、放送局側によって、改革派と護憲派が同等、もしくは実際とは逆転した印象を受けるように意図的に内容を編集されたというのだ。
出演した高校生は、放送を観てから、なんじゃこりゃ〜、と仰天したというわけだ。
テレビ局側としては、日本の若者たちが憲法の改正に反対しているという事実を、日本国民に知られては困ってしまう、なんらかの事情があるのだろう。
だから、実際の彼等の主張する意見とは違う印象をテレビを見ている人々が抱くように、苦心して編集をしたわけだ。
かっかっか。((( ̄▽ ̄)))
プロの編集者としての能力と技術力を、中高生たちの意見をねじ曲げて伝えるために駆使してらっしゃるテレビ局のみな様、本当にご苦労様。
彼等もプロだからねえ。実際とは正反対のメッセージを受け取れるように番組を編集することさえ、朝飯前なのよ。
弟の第一声は、
「北朝鮮と変わらんじゃん」
だった。
ごもっとも。
TBSも懲りないよなあ。
脅されるままに坂本弁護士の情報をオウム側に垂れ流して、一家殺害のきっかけをつくったテレビ局なだけあるね。
倫理観のカケラもないよ。
今回は、出演した高校生が声をあげたからわかっただけで、この調子じゃあ、世論調査も、街頭インタビューも、眉唾もんだぜ。
こんな連中が私たちの情報を操作し、私たちの生活に大きな影響を与えていると思うと、つくづく、胸糞が悪くなる。
テレビの討論番組に出演した生徒たちからは、
「テレビがどう作られるか、わかった」
という意見があがっているとのことだ。
念のためにつけくわえると、この意見は、おとなたちへの大いなる批判を込めた言葉だ。
……いや、TBSのおえらんさんたちは、自分たちが子どもたちから皮肉られ、さげすまれていることすら、無自覚なのではと、ちょっと心配になったものだから。
若者たちよ、君たちは今回、非常に重大のことを学んだ。




キアロスタミの奇跡(2004.5.26)

弟に買ってもらったアッバス=キアロスタミの映画作品のDVDボックスを、一本ずつ観賞している。
今は、『トラベラー』、『友だちのうちはどこ?』、『ホームワーク』、『そして人生はつづく』、『オリーブの林をぬけて』までを、観賞し終わったところだ。
観賞するたびに、個々の作品について感想文を書こうとするのだけれど、いつも挫折してしまう。
すごい、素晴しい、感動した、傑作だ、見事だ、などと称賛の言葉を書き連ねるだけ書き連ねて、はたと困ってしまう。
アッバス=キアロスタミは、あらゆる次元で、私よりも高い能力を示す。
映画を観賞している私に向かって、キアロスタミはさまざまな芸をして見せるのだけれど、私ときたら、お釈迦様の手の中をくるくる走りながら、果てがどうなっているのかを想像しているだけの存在だ。
私がサルならば、お釈迦様とは、この文脈の中では、アッバス=キアロスタミのことだ。私とは、あらゆる意味においてスケールが違う。
しかし、キアロスタミからすれば、私は何と歯ごたえのない作品鑑賞者だろう。映画の作り手から見た理想の映画鑑賞者とは、映画監督の芸を、手の中でしっかりと分析しきれる者のはずだから。感想文さえ書けない私などが相手では、あまりにも役不足だ。
とはいえ、アッバス=キアロスタミは、同時代の映画監督の中では、右に出る者のいない、トップワンだ。
鑑賞者の個々の好みを越えて、これはハッキリと言いきれるはずだ。
映画の世界では、チャップリン以来の、飛び抜けて絶対的な存在だ。私の歯がたたなくても、これは仕方がないではないか。
キアロスタミは、それが映画作品であるという限界内でありさえすれば、およそ、どんなことでも見事にこなしてみせる。
それはまるで、鋼鉄を粘土のように軽々とこねて見せて、
「これはウサギ」
「これは飛行機」
「これは茶碗」
と、作品をつぎつぎ披露してみせる陶芸家のようだ。
私といえば、ぼう然自失。
この目で見ても、まだ信じられない!
鋼鉄がぐにゃぐにゃと曲がり、広げられ、巻き取られ、のびていけば、そんな馬鹿な! と思うでしょう? それと同じ驚きだ。
こんなことは、ありえないはずなのだ。
人間とは、人間の理解とは、これほどの高みにまで達することが可能なのか! 私は何度でも驚愕し続ける。
手の中のサルであるのも、悪い気はしない。
私は、奇跡に触れたのだ。

話変わって。
私の描いた「いろは猫」シリーズのなかの「矢筒猫」は、実は、キアロスタミの『オリーブの林をぬけて』の重要な場面の、背景だけを借りてきている。
私の想像力によって産まれた、へんてこな猫が、キアロスタミの映画のシーン、シーンをちらっと横切ったら、楽しいだろうなあというアイデアだ。
背景に使われた場面は、映画を観たひとなら、これはひとめだろう。
そこに、私の描いた猫を二匹、たたずませてみた。
私としては、『オリーブの林をぬけて』という作品への、深い思い入れを具象化するつもりで、背景をお借りしている。その思い入れと作品への敬意は、私だけがわかっていればいい。




カンヌ映画祭で大変なことが(2004.5.25)

第57回カンヌ映画祭で、マイケル=ムーア監督のドキュメンタリー映画『華氏911』がパルムドールを受賞したそうだ。
きたきたきた〜!
パルムドールと言えば、カンヌ映画祭の最高賞だ。
その最高の賞を、ドキュメンタリー映画が受賞するのは、もちろん史上初とのこと。
マイケル=ムーアなら、ありえると思っていたけど、本当に受賞したとなると、やはり驚きが先にたつ。
おめでとう、ムーアさん!
今回の映画も、米ブッシュ政権を痛烈に批判した内容のようだ。なんと、ブッシュ一族とウサマ=ビンラディン一族との、裏の関係をあばいちゃうという、ど根性を見せてくれているというウワサだ。
あまりの過激さに、配給会社のディズニーが、配給を拒否しているという異常事態。
アメリカ政府とビンラディンが裏でつながっているらしいなんてことがバレたら、こりゃ、まずいわけですね。
バレたらって、普通みんな知ってるだろう、と思うんだけど、けっこう知らないんだよね。テレビのニュースで言わないからかな。
ビンラディンとそのテログループ育成のために、アメリカ政府が支払った金額を聞いたら、ホント、卒倒しちゃうよ。
そうやって手塩にかけて育成して、旅客機でカミカゼ攻撃されているんだから、なにやってんだか。
ドキュメンタリー映画ということは、ぜんぶ本当ということなんだけど、それは政府にとってはもっとも悪いニュースだ。
国家レベルの犯罪も、闇の中で行われるものだから。
灯をつけてはいけません。灯さえつけなければ、私たちは、闇の中で聞こえてくるゴソゴソというあやしい物音を、聞こえないふりをして過ごすことができるのだ。
青ひげの制止を振り切ってドアを開けた花嫁は……。
ギャ〜!!
……こわい、こわい。
私たちは、黒くて巨大な耳を持つ二足歩行のねずみの映画だけを観ていればいいのだそうです。
しかし配給拒否ということは、カンヌ映画祭のパルムドール受賞作品をアメリカ人は観ることができないんですかね〜。自国の映画なのに。
日本人である私たちも、観れないかもよ。
今の日本は、言論弾圧のデパート状態だもんね。
テレビのコメンテイターが言論弾圧を世論であるかのようにすりかえてコメントすれば、すべて事足りちゃうんだよ、日本という国は。

そうそう。
ムーアさんのコメントをご紹介するのを忘れていた。
一部ですが、どうぞ。

米国とイラクの子どもたち、全世界で苦しんでいる人々、22歳の娘にこの賞をささげたい。世界はこれから変わっていくよ。(平和のために声をあげているのは)僕はひとりじゃないことがわかった」

「世界はこれから変わっていくよ」
という言葉に、胸が詰まった。




本のプレゼントを写真に撮る(2004.5.21)

お友だちから、本のプレゼントをいただいた。
嬉しい。とにかく、嬉しい。
嬉しがっているということを自分自身で確認するために、何度も嬉しいと書く。書けば書いただけさらに嬉しくなり、喜びはとめどなく大きくなっていく。
いただいたのは、アストリッド=リンドグレーンの『名探偵カッレくん』という、今では絶版になっている本だ。
絶版の本をプレゼントしてくれるなんて、なかなかできることではない。
お友だちは、なんて大胆(!)なひとなのだろう。
ひたすら、敬服してしまう。
好きな本を2冊以上買ってしまうというくせを持っている私だが、そのお友だちも、ハードカバーと文庫が出版されていれば、内容がいっしょでも両方そろえたり、発行の出版社が変更になると、これまた両出版社のものをそろえてしまうという、私と似たくせを持っている。
『名探偵カッレくん』も、ハードカバーのものと、新書判の2種類があるらしい。お友だちはもちろん、自分自身の気質と好みにしたがって、『名探偵カッレくん』を2種類ともそろえた。
以上のいきさつでお友だちの所蔵となった二冊のうち、新書のほうを、お言葉に甘えて私はいただいてしまったのだった。
プレゼントをいただいたとき、『名探偵カッレくん』はきれいに包装された状態だった。
聞くと、お友だちがわざわざ包装してくれたということではなくて、東京の書店にて購入したとき、店員さんに丁寧に包装してもらい、ずっとそのままの状態なのだそうだ。
包装された本には、リボンの形をしたシールで飾りつけがしてある。金色のシールだ。「GINZA TOKYO・SINCE 1885」の文字が確認できる。お友だちがこの本を手に入れたのは、1885年に開業した東京銀座の老舗の本屋さんらしいことが、ここでわかる。
つまり、こういうことだ。あるときお友だちは、銀座の本屋さんで本を買って、包装も解かずに今日まで保管していたのだ。その本は購入時のままの状態で1ページも開かれないまま、今、私の机の上にある。
私が本を読むためには、当然この包装をほどかなければならないのだが、私はまだ、そのふんぎりがつかない。これはもう、物語なのだ。「包装されたままの一冊の本」という素敵なエピソードは、それだけでじゅうぶんに物語たりえているはずだ。この物語は包装を解くことによって、新しい段階へと動きだしてしまう。そして、一度動いてしまった物語は、もとにはもどらない。
私は、当面はこのままで嬉しいのだから、包装紙を引き裂く理由が見当たらない。
読みたかった本なのに、私は、包んだ包装紙の向こう側にたどり着くことが、現段階ではできなくなってしまった。それは、まったく思いがけなかった本との出会いかたであり、驚きをともなった、純粋な喜びだ。
ひたすら喜びながら、私はふと、デジカメで本を写真に撮ってみた。机の上において、表返し、裏返し数枚ずつ。
ああ、どうしようか、というくらいに、深い満足感を感じる。
どんな写真か、みなさん、想像してみてください。




『髪結いの亭主』感想文(2004.5.20)

パトリス=ルコント監督の映画『髪結いの亭主』を観賞した。
さて、この映画の感想を、どう書けばいいのか。
少年時代に、「美容院を営む女性と自分は結婚したい、結婚するのだ」という人生目標をうちたてた男の物語、と、ひとことで言えば、そういう映画だ。
趣味なんていらない。友だちもいらない。出世どころか、仕事なんて、したくもない。
必要なのは、理髪店を営む女性と結婚することだけ。自分自身の人生をそう定義づけた少年は、美容院を営み、なおかつ彼の愛を受け入れてくれる女性を探し続けて、いまでは中年のおっさんだ。
コケの一念で理想の女性を探し続けて、ようやく、彼は、マチルドという理想の女性を見つける……。
充足しきった、愛の日々が始まった。
彼は、世間の目なぞどこ吹く風で、いっさい悪びれることなく、彼女の営むちいさな理髪店に、ふたりして閉じこもる。
外の世界など知ったことか。
理髪店の内側が安全で、愛に満たされてあれば、それでいい。
理髪店の外と内とは、壁ひとつ隔てた別の宇宙なのだ。
よその宇宙のことなど、気にする必要はない。
生きていくために、最低限、客は取ろうじゃないか。この肉体を維持するためには、最低限の譲歩はやはり必要だ。だから、ふたりがたてこもった理髪店は、営業だけはしている。お客という姿で、社会が、理髪店の外側からドアを開け侵入する。
しかし、理髪店の内側は、あくまでも愛し合う彼等の世界だ。愛の力が支配するここで、よそ者に、なにができるというのか。
堂々と胸を張って、彼等だけの愛をつらぬき続けていればいい。ここでは、第三者はふたりの愛に介入することは出来ない。
現実社会からの来訪者は、椅子に身を横たえて、おとなしく髪を切られ、シャンプーされるのみである。
とにかく、愛を守り抜くためには、なりふりなどかまってはいられない。
現実世界において、愛をはく奪されずにおれる恋人同士など、まれだ。現実と関係を持ちつつ、片手で愛も享受しようとするから、そういうことになる。
ふたりは、ふたりの愛のために、現実社会のほうをすっぱり切り捨てて生きようとする。
閉鎖的で逃避的な方法で、ふたりは愛をまっとうしようとする。
そして、ふたりの愛はつかのま、勝利を得たように見えた。
たったひとつ、「時間」という要素を別にすれば……。
と、映画をここまで観ても、
「なんですか、これは?」
と首をかしげるひとは、多いのではないか。
実際、映画に登場する第三者たちは、少年時代の彼の人生目標をまったく理解することが出来ない。
生きる目的が美容師を営む女性と結婚したいだけなどとは……。
なんと悪食で、意味不明で、いやらしいことだろうと周囲の人々は決めつける。
まあしかし、彼へのそれらの評価は、じゅうぶん正当でもあるわけで、確かに、主人公の彼は極めて変なおっさんだ。
痛快なまでに、変だ。
そして、この“変”さが、素晴しいのである。
私はと言うと、私自身がぞんぶんに変なので、彼の心情がよおく理解できる。
よおく理解できるが、大きな声では言えない。
(;^_^ A
そうなのだ、私は、怖れている。
私は、まともなフリがしていたい。
私と彼が決定的に違うのは、私が
「こんな変なことを考えているのは、私だけではなかろうか?」
とか
「こんな考えを抱いていることがみんなに知れたら、仲間外れになるんではないだろうか?」
というように、ひよってばかりな人間であること。
私は、変人であり続けながら、いっぽうで、変であることに罪悪感を感じているのだ。
これではいけない。
中途半端は、よくない。
独りぼっちになることを怖れていては、なにもはじまらない。
堂々と変人であり続ける彼は、私の理想の先にいるひとだと、そう言えるかもしれない。




鈴木タカ美ちゃんの書棚(2004.5.18)

木村紺センセの漫画『神戸在住』6巻を読み終えた。
収録されているどのエピソードも、月刊誌『アフタヌーン』掲載時に読んでいるはずなのに、なぜかぽろりと泣いてしまった。
主人公・辰木桂ちゃんの幼少時代の回想のエピソードが、多く掲載されているからかもしれない。
現役大学生である桂ちゃんの立っている位置から、彼女自身の幼少時代を振り返るとき、そこには20年前後の時間の流れが存在する。彼女はまだまだ若いから、たった20年ほどの積み重ねでしかないが、それでもじゅうぶんに、物語に奥行きのようなものが生まれる。
大切な思い出も、できうることならもう一度やり直したいという後悔も、その時間の流れの中で起きた出来事であり、彼女の記憶に焼きついている。そして、時間の流れはいつも一方通行で、流れたら流れていったまま二度と帰ってこない。すべてが、決定的だ。
手を滑らせて皿を割ったら、その事実は時間によってがっちりと固定され、絶対に揺るがない。
揺るがないからこそ、改編不能だからこそ、喜びも、悲しみも、せつなさも、すべてが決定されたまま彼女のものだ。そして、流れて消え去った時間は、現在の彼女の立っている遠い場所から、記憶としてもう一度呼び戻される。
呼び戻された時間は、現在の桂ちゃんの解釈にさらされる。決定され、固定された時間を評価するのは、現在に生きる20歳前半の彼女なのだ。
そんな彼女の評価した人生の物語を、私はさらに上から、一冊の漫画作品として、眺める。
せつない。美しい。だから私は、ほろりと泣く。


話題変わって。
『神戸在住』6巻には、鈴木タカ美ちゃんの本棚が、ちらりと出てくる。鈴木タカ美ちゃんは、桂ちゃんの、大学のお友だちだ。
鈴木タカ美ちゃんは、漫画が大好きだ。だから、本棚も、漫画本がずらりと並ぶことになる。
私は、桂ちゃんのことも好きだけど、鈴木タカ美ちゃんのことも、大好きだ。
だから、鈴木タカ美ちゃんがいったいどんな漫画本をコレクションしているのか、知りたくなってしまった。
虫眼鏡を出してきて、小さな小さな背表紙の文字を、解読してみた。
まず、フラワーコミックスの『風光る』は、比較的大写しのコマがあるから、虫眼鏡がなくてもわかる。問題は、その隣の書籍だ。画面を構成しているフレームにかろうじて引っ掛かるようにして、背表紙が見える。平仮名2文字の一部分と金魚の絵の一部分が判別できた。
これは、おそらく、須藤真澄センセの短編集『あゆみ』だな。
鈴木タカ美ちゃん、見かけによらず、しぶいねえ〜!! と、声を出してしまった。
解読作業をさらに続ける。
書棚が出てくる他のコマは、さらに細かく、書籍名を判別することが虫眼鏡をもってしても、不可能だ。
しかし、構図的に『あゆみ』の隣に位置する三冊は、同じく須藤真澄センセの『振袖いちま』1巻、2巻、3巻のはずだ。
鈴木タカ美ちゃん、須藤真澄センセのファンみたい。私もそうなのよ(笑)。
鈴木さんに、親近感を覚えてしまった。私が何とか解明した漫画本のタイトルは、これだけだった。
鈴木タカ美ちゃんの書棚には、まだまだ本が並んでいる。タイトルがわかった人がいたら、私に教えてください。
主人公辰木桂ちゃんも、相変わらず読書家だ。
アップダイク、ヘレン=マクロイ、ボブ=グリーン。
桂ちゃん、48話でなんとカート=ヴォネガットを読んでらっしゃる。
どしー! 桂ちゃん、ヴォネガット読むの〜!!
小さく描かれた表紙の雰囲気から、これはヴォネガットの初期の作品、『ローズウォーターさん・あなたに神のお恵みを』の文庫版だ。まちがいない。
私も、大好きな小説だ。もちろん、傑作だ。
つーか、ヴォネガットは、マーク=トウェインと並ぶ、アメリカ文学界の偉大な巨人だ。アメリカの良心そのものと言ってもいい。とはいえ、マーク=トウェインほどには、日本では知られていない。
桂ちゃんと私って、けっこう読書傾向が似ていないか?
桂ちゃんが、私の大好きなヴォネガットを読んでくれている。そう考えると、どういうわけか、うきうきとしてしまう。
幸せです。

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