前の日記1 / 前の日記2 / 前の日記3 / 前の日記4 / 前の日記5 / 前の日記6

 / 前の日記7 / 前の日記8 / 前の日記9 / 前の日記10 / 前の日記11

 / 前の日記12 / 前の日記13 / 前の日記14 / 前の日記15 / 前の日記16

 / 前の日記17 / 前の日記18 / 前の日記19 / 前の日記20 / 前の日記21

 / 前の日記22 / 前の日記23 / 前の日記24 / 前の日記25 / 前の日記26

 / 前の日記27 / 前の日記28 / 前の日記29 / 前の日記30 / 前の日記31

 / 前の日記32 / 前の日記33 / 前の日記34 / 前の日記35 / 前の日記36

 / 前の日記37 / 前の日記38 / 前の日記39 / 前の日記40 / 前の日記41

 / 前の日記42 / 前の日記43 / 前の日記44 / 前の日記45 / 前の日記46

 / 前の日記47 / 前の日記48 / 前の日記49 / 前の日記50 / 前の日記51

 / 前の日記52 / 前の日記53 / 前の日記54 / 前の日記55 / 前の日記56

 / 前の日記57 / 前の日記58 / 前の日記59 / 前の日記60 / 前の日記61

 / 前の日記62 / 前の日記63 / 前の日記64 / 前の日記65 / 前の日記66

 / 前の日記67 / 前の日記68 / 前の日記69 / 前の日記70 / 前の日記71

 / 前の日記72 / 前の日記73 / 前の日記74 / 前の日記75 / 前の日記76

 / 前の日記77 / 前の日記78 / 前の日記79 / 前の日記80 / 前の日記81

 / 前の日記82 / 前の日記83 / 最新の日記



ポエムマンガに戻る / ホームに戻る




大本営発表を復活させるのだそうです(2004.1.10)

ジェフ市原の指揮を今年もオシム監督がとってくれるのか知りたくて、日刊スポーツのWEBサイトnikkansports.comをのぞいたら、こんな見出しが踊っていた。
防衛庁が報道自粛要請、大本営発表復活へ
……ハハ。
大本営発表という響きに一挙に脱力。
「イラクへの自衛隊派遣報道について石破茂防衛庁長官は9日、報道各社に派遣の日程や隊員の安全にかかわる報道を自粛し、現地取材を極力控えるよう申し入れた」
そうだ。
現地取材を極力控えて、国家が垂れ流す情報のみを受け入れなければならない復興支援っていったい……。
疑問がむくむくともたげてくる。
「あの〜。イラクで行う復興支援は、具体的にはどういう内容なのですか、と訊いてもいいですか?
……訊かなきゃよかったというような内容なんだろうな。
ま、イインジャナイスカ? 大本営発表。
歴史は繰り返すと言うじゃないか。
B29とか言っていたころに逆戻り、ほんと、スゴイ。
先人のお残しになった言葉は正しかったのサ。
d(-_-) デショ?
くらくらしながらnikkansports.comの中にサッカーの話題を探すと、またこれが、とんでもないニュースにぶつかる。
イラクに派遣された自衛隊のひとたちが、向こうのひとたちとサッカーをするなどという、素晴しい企画があるそうだ。
これにはたまげた。
彼等の頭に爆弾落として、家を焼いて、デモ隊にも発砲しておいて、今度はテレビカメラの前でにこにこサッカーやれって言うわけですか!
そいで、マイクに向かって、ありがとう! とか言わせるのね。
ごっつ、醜いなあ。
鬼畜生って言うけれど、これは鬼も泣く。畜生は憤慨する。
想像力を働かせろよ、あのひとたちはサッカーどころじゃないんだって、まじで。
仕事も友も家族も失ったんだ、私たちが奪ったんだ、それを引きずり回して親善とか言ってサッカーやらせてどうするんだ。
日本のサッカー協会は、2年ほど前から、政治や政財界に急接近することで、自己の立場を強化し、国内外の発言力を増すことに腐心してきた。
そしてそれは、ある意味成功していたはずだ。大成功と言ってもいい。
だが、逆の視点から見れば、スポーツ団体であるサッカー協会が、政界や財界に振り回されるようになったとも言える。
自衛隊が向こうでサッカーをするだけではあきたらず、念押しに2月には、イラクの選手を呼びつけて、日本代表と親善(!)試合をするという。
だが、日本代表の強化にはとうてい結びつくとは思えないこの試合を、テロのリスクを承知しながら開催する理由は、いったいどこにあるのか?
いまの日本という国の掲げる世界戦略への、サッカー協会のこれはごますりではないのか?
日本政府の政策とそのプロパガンダに、サッカー界が一役買いましょうと名乗り出たという図式。
無理無理のポーズは別として、イラクのひとたちは、サッカーやらされて誰も感謝なぞしやしない。
しかし、政財界は大喜びのはずだ。
イラク復興などと声高に連呼しながら、その顔はどこを向いているのか?
イラクのひとたち、中東のひとたちがどうなってもかまわないというスタンスに疑問を抱くことがほとんどないまま、私たちは自分の欲望を覆い隠すための奇妙で醜悪な博愛主義を押し売りする。
救いがあるとすれば、いずれ私たちも地獄に落ちるという、その点だけだ。
もちろん彼等にしてみれば、人生を奪った私たちを、自分たちの手で八つ裂きにしたいだろうナ。
しかし、それは無理だ。彼等にその力はない。
だが、辛抱強く時が訪れるのを待て。
予言ちょいちゃる、私たちの地獄への旅は、飼い犬に手を噛まれることからはじまるだろう。
さよなら、さよなら、さよなら!
生きること、そして幸福に未練のある私は、覚悟を決めるのに時間を要している。

……。
まったくひどい話。
最近では、サッカー情報を探すのにも、気持の準備が必要だ。
確かに、日本サッカーが世界に伍する力を得るためには、国内外に向けた政治力も金も要るだろう。
……そして腐敗。
……崩壊。
ふと思ったのだが、いまの日本サッカー協会って、『指輪物語』(映画名は『ロード・オブ・ザ・リング』)のストーリーをそのままなぞっているみたいだ。
指輪を手にしたとたん、奥深いところで何かが変質しはじめる。
指輪を所有するかぎり、その変質、腐敗は、不可避だ。
懸命かつ純朴なフロドたちはここには存在しない。
もうすぐ私たちは、現実世界における『指輪物語』の結末を、きっと発見することが出来るだろう。
これからの日本サッカー協会に。そして日本という国の行く末の中に、ね。
こちらのストーリーには、残念ながらファンタジーのカケラもないが。
あるのは、腐敗臭。
そして、空前絶後の苦痛。
求めることが許されるのならば、私たちにいま必要なのは指輪ではなく、たぶん、サム=ギャムシーのような存在だ。
そしてもうひとり。
ゴクリ(映画ではゴラム)。
『指輪物語』のゴクリには、要注目だ。
ゴグリを軽視してはいけない!
いま、私たちの世界は、サム=ギャムシーとゴクリを緊急募集中なのだ。




GIFアニメ『スイミングプール』(2004.1.8)

ホラーGIFアニメを昨日アップしたのだが、これが母のお気に召さなかったらしい。
「こんな気持の悪いものをアップして、絵本工房のコンテンツの趣旨をわかっているの?」
とけんもほろろに言われてしまった。
おっしゃるとおりだ。
だから、別の作品を作ってみた。
↓クリックすると別ウインドウがひらいて、見ることが出来ます。
『Swimming Pool』(100キロバイト)
100キロバイトと、不自然なまでに重い。
フルカラーだからだ。こういうのも一度作ってみたかった。
これは、プールのアニメだ。絵本工房のコンテンツの趣旨に合致しているかは、自信がない。少なくともホラーではないので、許してもらえるのではと思っているのだけれど。
私のプールの思い出は、2度ほど溺れかけたことがあるという、それだけだ。今もってまったく泳げない。
だけど、プールという名の、コンクリート製の四角形の箱の中に張った水の中で踊っている光を眺めているのは、小さいころから好きだった。プールではしゃいでいる学友たちから離れて、黙りこくったままボーッと水面を観察している私。
そうした思い出を踏まえて、プールの水と太陽を使って絵を動かしてみた。
いざ動かしてみると、プールの水のコマをぎくしゃくと動かすだけではあまりにもしょぼいことが判明し、裸のカップル(のつもり)を泳がしてみた。
水の中を泳げるひとはいい。楽しそうだ。
そんなことを、ふと思う。




GIFアニメ『ホラー赤頭巾ちゃん』(2004.1.7)

昨年の暮れに年賀状GIFアニメを作ったのだが、これが、制作前に考えていた以上に楽しい作業となった。
だから、年賀状アニメとはまた少し違った作風のものを、余力をかって作ってみた。

↓クリックすると別ウインドウがひらいて、見ることが出来ます。
『ホラー赤頭巾ちゃん』(91キロバイト)
動きが雑な割には、重い。そこが少し気がかりだ。
大掃除や仕事からの逃避手段、いわば気晴らしとして作っている雑な作品なのだから、もう少し軽くなくてはいけないかもしれない。
私が認識しているホラー映画の常とう手段を、私の力量が許す狭い範囲内においてのみ、実現してみた。そんな作品だ。
自分が作って自分が楽しむ。だから、制作に入る前に頭の中で描いていたような動きにはほど遠くても、まったく平気だ。個人的な喜びのためだけに作ったのだから。
しかし、本音を言うと、作ってそれきりというのも、少しだけ、さびしい。
本人はそれなりに苦労して作ってはいるのだから、やはり愛着のようなものがある。
なので、こうやって日記の片隅に、こっそりアップしておこう。




新年のご挨拶(2004.1.1)

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。
日記と言っても、一応公開されているものだから、ここで新年の挨拶をば、いたしとうございます。
(*'‐'*)
今年も期間限定で、年賀状GIFアニメをアップしました。
簡単な動きしかしないくせに、80キロバイトもあります。
そんなのでよかったら、どうぞ、楽しんでください。
トップページからも飛べますが、面倒くさいというかたは、
こちら↓
年賀状


こういうのを作って動かすときは、とにかく楽しくってしようがない。
上手下手は関係なく、作った本人が、いちばん喜んでいる。
子どものころ、教科書のはしに描いて遊んだ、ぱらぱら漫画そのままの出来だ。
自分の描いた絵が、動き出す(ように見える)。
それが、こんなにも楽しかったことを、再び思い出した。




クリスマスのすごしかた(2003.12.25)

クリスマスイブおよび、クリスマスは、個人的に生きるのがつらくなる期間だ。
毎年、最悪としか言いあらわしようのない気分になる。
なんて不吉な二日間だろう。
実際は二日間ではなく、日本国中をあげてのクリスマスキャンペーン期間すべてが、私にとって不吉きわまりない日々だ。自分自身と自分の生活すべてが、そして街が、不吉一色に彩られる。
街を歩くと、いやというほど、チープにほどこされたクリスマスの飾り付けを眺めつづけなくてはならない。耳には途切れることないクリスマスソングと、各店舗による消費者に向けたさまざまなアナウンス。
クリスマスの物語をめいいっぱい楽しめ、ぞんぶんにクリスマスを消費しろ。
清潔で、適度におごそかで、満ち足りた気分。甘い感動と、幸福。あなたはこの期間、そうした感覚や気分を味わい尽くさなければならない。
しかし私は、その要求に応えられるような、立派な消費者ではない。
クリスマスを消費しつくすための物語とも、クリスマス色にデコレーションされた街とも、私は縁遠い存在だ。
ぬぐいがたい疎外感。
コンビニエンスストアの店先では、サンタクロースのいでたちで凍えている店員が、残業帰りのお父さんに、残ったケーキを売りつけている。
そのケーキなどを買って食したりすれば、その不吉さは頂点へと達する。
これはたまらない。
話がそれるけれど、コンビニエンスストアは年中無休24時間不吉ではあるが、クリスマス期間はとくに、牙をむいて襲いかかってくるような感じだ 。
息をとめて足早に立ち去らないといけない気がして、実際そうしている。
その不気味さは、駐車場の看板に赤文字で書かれている『月極』の文字と、私にとってほとんど等価だ。
これらは、私が私自身に向かって感じることのできる、恐怖そのものだ。
どんどん話がそれるが、駐車場の看板のあの『月極』の文字は、感心してしまうほどに、不吉だと思う。
この四角四面の文字面にまず圧迫される。
「月」と「極」のそれぞれの漢字が持つ、不吉さと厳格さと暴力のイメージ。
子どものころの私は、あの熟語を「げつきょく」と読んでいた。
金網で囲まれた何もないだたっぴろい土地は、げつきょくちゅうしゃじょうだ。
なんという暴力的な響きだろう。
「げつきょく」が何を意味しているのか、当時の私にはさっぱりわからず、それが不吉さを増幅させた。
「げつきょく」が「つきぎめ」に変わった今も、その不気味さは変わらない。
そして、これらの不吉さに示す私の理解は、まったく個人的なものだ。
それは、考えようによっては、私にしか見えない幽霊のようなものかもしれない。




高山智津子先生の新刊本を読む(2003.12.24)

絵本評論家・高山智津子先生の新刊『絵本でふくらむ子どもの心』を、献本という形でいちはやく手にすることができた。
『絵本でふくらむ子どもの心』を制作するさい、私が、高山先生の自筆原稿をデジタルデーターとしてテキスト形式に落とすという作業を行った。ゆえに、献本していただけたのである。
高山先生、ありがとうございました。大切に読まさせていただきます。
(*^ ^*)
読んでいくと、オリジナル原稿には存在していたさまざまなエピソードが省略、もしくは簡略化されていることに気がつく。
もちろん、どのような本を作る場合でも、原稿のダイエットは、かならずある。
ページ数の都合、テーマの明確化、読みやすさ、くりかえしの回避等の理由で、いったんできあがった文章などの一部を削る作業は、必要なものだ。
対象を削り、掘りおこしていかなければ、彫刻作品は完成しないのと同じこと。
オリジナル原稿がダイエットの試練を乗り越えることによって、ビューティーな本物の本へと仕上がる。
だが、公開されることを許されなかったエピソードの数々は、削除の決定に容易ならざる決断を要するほどの、素晴らしいエピソードたちでもあったと思う。
私のお気に入りのエピソードのいくつかが、最終的に、本の内容からこぼれ落ちた。
映画の未公開映像ではないけれど、本編からもれたことが、おしい気が私はする。
エピソードの具体的な内容については、高山先生の次回作のこともあるだろうし、私の胸の内にしまっておかなければならない。それもちょっとだけ、せつない。
ただ、高山先生のオリジナル原稿を読み込んでいるがゆえに、以上の感想が可能になるとも言える。
Macのハードディスク内に保存されたままになっている先生のオリジナル原稿と、完成した書籍とを読みくらべ、そうすることによって編集の方々の決断の根拠、編集の方針にも、想像を働かせる。
本作りは、つくづく面白い。
リスクが大きいのが本作りの難点だ。
だが、その部分をクリアできれば、あらゆる工程を通じて、本を作る作業はとてつもなく深く、面白い作業だと思う。




高山智津子著『絵本でふくらむ子どもの心』発売(2003.12.14)

絵本研究家の高山智津子先生の新刊本がアリス館さんから発売になった。
『絵本でふくらむ子どもの心』が、タイトルだ。
原稿作成に当たっては、私が少しだけお手伝いをさせていただいた。原稿用紙にびっしり書かれた内容を、パソコン上でテキストファイル化し、それをさらにフロッピーに落とすといった、それだけの作業である。しかし、本の内容は、私が誰よりも(アリス館さんのスタッフよりも)はやく読んでいることにはなる。どういうわけかそれが、少しだけ優越感を抱かさせたりもする。
そして、制作にかすかにでも関わった者としてはやはり、一冊でも多く本が売れて欲しいというのが本音だから、そうした方向を意識しつつ簡単に本の紹介をさせていただくと、絵本と出会い、自分のために絵本を読む時間を過ごす著者の生活の、愉悦に満ちた日々の記述が、この本の大きな柱だ。
と同時に、読書という奇妙な行為の中でもさらに特殊な位置づけである絵本を読むという行為をめぐっての、人と人との関わり合いを、著者の体験をとおして、具体的かつ興味深く書いている。
そして、絵本を読むという非常に風変わりなコミニュケーション手段によって産み出されていく、肯定的な関係性の中心にいるのは、やはり子どもだ。
高山先生が絵本という手段をとおして関わっていく人々の多くは、先生ご自身の幼少期の記憶を含めて、ほとんどが子どもであり、本のタイトルの『絵本でふくらむ子どもの心』は、やはり正解だ。
とまあ、評論家気取りでえらそうなことを言うわけだが、高山先生にはこの日記をときおり読んでいただいているようなので、冷汗が吹き出てくる。営業活動の一環のつもりなのです、と、高山先生に向かってひとこといいわけを言っておこう。
みなさま、よろしければぜひとも手にとってみて下さい。




松尾芭蕉の連句アニメーション購入(2003.12.11)

インターネット書店のAmazon.comから『連句アニメーション 冬の日』というタイトルの9枚組のDVDボックスを買ってしまった。
『冬の日』は、アニメーション作品だ。
松尾芭蕉七部集『冬の日』の連句を原作としたアニメーションを、世界屈指のアニメ作家35名が、3年の月日をかけて制作したものだ。
お値段は、定価¥36,000のところをお安くしていただいて、¥30,600
正直、買おうかどうしようか悩んだが、ともに絵本大学を卒業したお友だちに相談すると、
「ぜひとも買いなさい」とのことであった。
ぜひとも、となれば、もちろん、決心して買うしかないだろう。
ユーリ=ノルシュテイン、川本喜八郎、ラウルセルベ、高畑勲、山村浩二(敬称略)らの短くも見事な作品をつぎからつぎへと鑑賞する。
連句とは、なにか? パッケージに付属する解説書によると、複数の歌人が前のひとの下の句をうけ、自分の句をつないでいく文学形式を、そう呼ぶとのことだ。
ある句からつぎの句へと展開していく連句という一種の遊びにインスパイアされたアニメ作家たちが、芭蕉たちが残した連句を土台にして、短編アニメを数珠繋ぎにつないでいく。
短編アニメの作品作りに当たっての決めごとは、それぞれに割り当てられた俳句の内容と何かしらの関連性があること、作品が40秒以内であること、そしてアニメーションであることという、それだけ。そうした制約以外は、アニメ作家たちが何をしても、どのようなイメージをふくらませても、自由だ。
その自由さの中で、アニメ作家たちのうちにひそむ俳句同様の遊び心が心地いい。遊びめいているからこそ、彼等の力量がたのもしい。
想像力を刺激されたアニメ作家たちの素晴しい芸と、いい意味での腕のきそいあいを、私は楽しむ。
この9枚組のDVDボックスのうちの実は8枚が、作品を制作した35人のアニメ作家たちのインタビューや制作技法の紹介についやされている。
こちらも興味深いが、ゆっくりと観賞している時間が、なくなってきている。
とうとう、先延ばしにしてどっさりため込んだ仕事をしなくてはならなくなってしまったのだ。
年貢の納めどきか。

がはは。(;^▽^ A
ついに、本作りに身も心も捧げるときがやって来たようだ(おおげさ)。
この日記も、しばらくお休みになるかもしれません。
『未来世紀ブラジル』
『ストーカー』
『ロード・オブ・ザ・リング第二部』
『火の鳥2772愛のコスモゾーン』完全版(!)、
『バタリアン』
というDVD映画作品も、落ちつくまでしばらく棚のお飾りか。
……こんなに買っていたのか。いったい、来月の支払額はいくらなんだ。
大好きな絵本『ゆきのねこ』も2冊目を買ってしまった。
これは、ダイヤル=コー=カルサの傑作中の傑作絵本だ。
好きな本は、どうしても2冊欲しくなる。
マイケル=ムーアの新刊『おい、ブッシュ、世界を返せ!』も購入。
はやく、読みたい。
「笑い」だけが、世界を根底から覆すパワーを持つ、と、マーク=トウェインは言った。マイケル=ムーアを見ていると、そのいにしえの言葉(というほど昔じゃないけど)を実感する。




イラクに出兵、子どもたちにはごめん(2003.12.10)

イラクへの軍隊派遣を、私の暮らしている国の政府が決定した。
9日午後のことだ。
国連にさんざ非難されながらもどこ吹く風で、我々は鉄砲かついでイラクの地を踏む。
さあ、ゲリラ戦だ。
イラクがテロリストの大温床となるという結果が待っているだろう。
ノストラダムスでなくても、それくらいは予想できる。
すべてがとてつもなく馬鹿げているだけでなく、不必要に破壊的で残酷なふるまい。だが、言うまい。
この事態に、子どもたちはなんら責任がない、その点は、申し訳なく思っている。
ごめんね。
あなたたちがふたつの穴からのぞくこの世界は、残念なことに、とてもじゃないが耐えられるような代物ではなくなるはずだ。
どうか、あなたたちが一刻もはやく、笑いの技術を会得することを、切に願っている。
12月8日は、ジョン=レノンの命日だそうだ。
想像力たくましくして、ジョン=レノンの歌を聴こう。
「♪神さんのいない世界を想像してみようよ♪」
彼は歌う。
ジョン=レノンたちだって、けっこう頑張った。
しかし、世界を独り占めしたがっている向こうさんがたのほうが、さらに頑張ったんだな。
世界の膨大な資源のことを考えれば、向こうさんのやる気も理解できないではないが。
その頑張りのおかげで、世界は、おじゃんになる寸前です。
ヴォネガットじゃないけれど、
「さよならを言っておいて、まず間違いがない」

 



露の都さまの落語を心から楽しんだ(2003.12.8)

女流落語家の露の都さまから、『女流顔見世落語会』のチケットを2枚、玲子宛に送っていただいた。
せっかく貴重なチケットをいただいたのに、玲子は都合により顔を出すことができなかったのだが、申し訳なくも玲子の息子である私と弟が、お邪魔させていただいた。
手ぶらでは失礼に失礼を重ねることになるので、モスクワの味のお菓子を高島屋でみつくろい、つまらないものながらお渡しすることにした。
受付にいらっしゃった男性の方にお菓子をお渡しすると、
「あ、溝江先生ですね!」とその方はおっしゃった。
これには驚いた。玲子を先生などとは、言い過ぎもいいとこだ。
玲子は、先生というほどの者ではございません、と、ぼくとつと訂正させていただいた。とんちんかんなやり取りで、落語の一コマのようだった。などと、今になってふと思う。
落語は、最近になってようやく、その面白さが少しだけわかってきた次第。
というのも、落語に登場するのは酔っ払い、ばくち打ち、遊び人、けちんぼ、金貸し、暴力夫、借金まみれが多く登場するので、子どものころの私は、
「しゃんとしたやつは出てこないのかよ!」と、幼いころ特有のきまじめさで憤慨していた。
恥ずかしいかぎりだが、それなりに落語鑑賞の感想としては成立していたのではないかと、ふと、そういう気もする。
と、そういう話しの前に、露の都師匠に、お礼を述べなければならなかった。
ありがとうございました。
玲子が顔を見せずに失礼をいたしましたが、息子の私が、玲子のぶんもたっぷりと楽しまさせていただきました。

*****************************************************

存分に笑ったあとは、難波のジュンク堂で仕事用の本を買う。
『チャペックの本棚〜ヨゼフ・チャペックの装丁デザイン』、『壮丁の仕事160人』、『VOGUE(アメリカ版)』、『ちひろと世界の絵本画家たち』、『唐長の「京からかみ」文様』、『シリーズかたち〜中国のめでたい形』だ。
実は、本の壮丁の仕事が重なり、最近少々パニック気味。
これらの本ならびに雑誌からお知恵を拝借だ。
しかし、仕事の本といいながら、いっぽうで趣味の本でもある。ビジネス書のたぐいは影も形もなく、楽しい買い物だ。
幸せな気持ちで家に帰ると、注文していた洋書が届いていた。
『ちひろ美術館の絵本画家たち』で紹介されていたクラウディア=レニャッツィの絵本だ。
これはメキシコの絵本で、テキストを読んでも、最初から最後まで、何が書いてあるのかさっぱりわからない。
タイトルは、『La venganza de la trenza』
絵だけを眺め、レニャッツィの絵本に出会えたことに満足する。




『マッキントッシュ誕生の真実・VOL1』読書感想文(2003.12.5)

テレビニュースを5分以上見ていると精神衛生上よろしくないので、ひたすら読書にはげむ。
ジュンパ=ラヒリというインド系アメリカ人作家の短編小説集『停電の夜に』という本を読んでいたら、新しい本が小包みで届いた。
斉藤由多加著『マッキントッシュ誕生の真実・VOL1』だ。
マッキントッシュとは、アップル社のパーソナルコンピューターの製品名だ。一般にマックという愛称で呼ばれている。パーソナルコンピューターなどとというものはその概念すら存在していなかった時代に、一握りの伝説的なスタッフによって産み出された最初の(実質的な)パーソナルコンピューターが、Lisaであり、それにつづく初代Macintoshだ。
ちなみに、著者の斉藤由多加氏は『シーマン』『Tower』という有名なゲームソフトの作者だそうだ。その斉藤由多加氏が、Macintosh誕生に関わった様々なひとたちを取材し、インタビューし、まとめあげたものが、この『マッキントッシュ誕生の真実』だ。
届くのをずっと楽しみにしていた本だから、いったん『停電の夜に』をおいて、こちらをぱらぱらとめくってみる。
前書きに
「本書の取材は、「マッキントッシュ」というパーソナルコンピューターを産み出した土壌と、ドラックカルチャーないしはカウンターカルチャーと呼ばれるアメリカ文化のムーブメントとの関連を裏付けるという視点にたって行われた。」とある。
私がもっとも興味を抱いている切り口からの取材方針によって産み出された書籍のようだ。これは、予期していなかったことで、嬉しい。
おそらく、ヒッピーたちが行ったさまざまな実験の中で、Macintoshの誕生はもっとも建設的な成果のひとつではないだろうか。
設計思想としてのMacintoshは、ある意味で時代の空気が産み出したのだというその仮説を、具体的な製品としてのMacintoshを作り出したスタッフに直接ぶつけてくれた斉藤由多加氏には、個人的に感謝の気持ちでいっぱいだ。
WIN機が非人間的なコンピューターであるとするならば、初期のMacintoshは反体制的、非社会的と呼ぶべきコンピューターであっただろうと、私はそういう印象を持っている。
当時、パーソナルコンピューターの“パーソナル”には、それなりの哲学と鋭く過激な主張がもりこまれていたのであり、それを、単なる業務機械のWIN機がパーソナルコンピューターと名乗るなどとは、笑止であるとすら、個人的には思っている。言葉はやはり、正確に使うべきで、大量販売のためのイメージとしてのみに、パーソナルコンピューターを名乗るのは悲しいことだ。
スティーブ=ウォズニアック、アラン=ケイ、ジェフ=ラスキン、ビル=アトキンソンらの、ほとんど神話上の人物のロングインタビューが掲載されている。なかでも、現CEOのスティーブ=ジョブズとの不仲が取りざたされているジェフ=ラスキンのインタビューは、マック関連書籍の中でもあまり頻繁には読むことができなくて、楽しい。
私は、ジェフ=ラスキンのファンだ。彼は、マックユーザーたちの多くからも、いわれのない誤解を受けていると思う。
彼らは生存するが、同時に、現代における神話上の人物だ。アメリカンドリームの体現者であり、当時のコンピューターの常識にたてついた者であり、彼らなりのやりかたで人間の解放を模索した者たちだ。
うわさや誇張も含めて、ひとびとがいつまでも語り継ぐような内容がある。
ビジネスからすっかり足を洗って近所の子どもたちの教育に力を注いでいるスティーブ=ウォズニアックの近況もまた、伝説の一部だ。『マッキントッシュ誕生の真実』というテーマでのインタビューで
「子どもに関心があり、子どもには良い教育を受けさせたい」と答えるウォズニアックのこの人柄こそが、Macintoshという製品の本質だったのであり、その神話性の源だ。
古いアップル社のテレビコマーシャルいくつか観る機会があった。テレビコマーシャルの虚構の世界の中で、ひとびとは、何らかの形でMacintoshを道具として使用することにより、新たな自由と可能性を獲得するという内容のものが非常に多いのに感心した。これも、時代的なものなのだろうか?
「DVDがついてこのお値段」、「高速、最速」、「らくらくモバイル」
アップルのものを含めて、最近のパソコンのテレビコマーシャルといったらたいていこれだ。
人間の解放など、影も形もない、単なる電化製品でしかない。





今日も誰かの他人(2003.12.4)

テレビニュースを5分以上見ていると発狂しそうになる。
イラクで、邦人2名が射殺された。驚くことはない。
いつか必ずやって来るはずの、Xデイだ。まったく不可避な出来事で、問題は、“いつ”“だれが”だけだった。
私たち日本人にとって、これが最初だった、という意味においてだけ、記憶される事件だ。これから私たちは、この手の事件にあっという間になれるだろう。予言しちょいちゃる。そうして、ある日さらに大規模な事件が起き、そのときだけまた騒ぎ、すぐにまたなれる。
イラクの人たちがどのような目にあってもかまわない、というような立場を私たちがとっているかぎり、すべての情報は毒だ。
その毒から、最初の悲劇がとうとう生まれてしまった。そして、その悲劇そのものが、また新しい情報として、我々のもとに届く。
イラクの人たちに限らず、世界や他者がどんな目にあってもかまわない、というようなところから出発して、さて、どこにたどり着こうというのか? しかし、自分の生活のためには他者がどうなってもかまわない、という主張は、この世界でもっともありふれて、もっとも馬鹿げた矛盾だ。
なぜなら、誰もが誰かの他人だからだ。隣人、他県、他国、他民族、ライバル会社、恋敵、タイガースとジャイアンツ。せちがらくいこうと思えば、どこまででもせちがらく行けるけれどね。
つまるところ、私たちの関心は自分たちの生活の不安定さであり、心のうちに潜む不安や恐怖の解消だ。テレビリポーターにさんざん脅かされ、私たちは穴を掘る。掘れと言われたからだ。もちろん、それは私たち自身の墓穴だ。もういつ死んでも安心だ。
イラクに自衛隊を派遣しなければ、消費税をアップしなければ、市町村を合併しなければ、大規模リストラしなければ、デジタル放送を受信しなければ、私たちの生活は根底から瓦解するんだとさ! えっ、マジ!
生き残る道は他にない、って教えられるので、せちがらさに苦渋の表情を浮かべつつも、みな納得してみせる。
死なないために、生きるのだ。
……素晴らしいスローガン。
大変だわ。
しかし、きついことを言うようだが、自分、自分と欲の皮つっぱらかしているから、足もとを見られるのだ。生き残るのは大事だが、どのように生きるのかも大事だ。少しは、周囲を見回さないと。学ぼう、学ぼう! なぜなら、この世界には他者しか存在しないからだ。私たちは私たち自身を食い物にしているのだ。
パラドックス。
世界や他者がどんな目にあってもかまわない、と主張する私たち自身が、実は、世界や他者そのものだ。
私が他者じゃないとしたら、いったいどこに他者がいる? ねえ? 逆に言うと、すべてが自分だ。





『火よう日のごちそうはひきがえる』読書感想文(2003.12.1)

ラッセル=E=エリクソン作、ローレンス=D=フィオリ画の児童書『火よう日のごちそうはひきがえる』を読む。
これは、お友だちが話題にしていた本だ。
それを私が『火よう日のごちそうはひきがえる』というタイトルに引き込まれ、簡単な感想を聞き出し、購入、といういきさつで読んだ。
『火よう日のごちそうはひきがえる』などという絶妙なタイトルを聞きおよんで、興味をそそられないわけにはいかない。
本を手にとると、「ぼくみみずくのおたんじょう日のごちそうになんかならないぞ!」という帯の文句がまた素晴しい。
ローレンス=D=フィオリの描く赤い眼をしたミミズクが、ロウソクを灯した部屋で、ヒキガエルを見下ろしている絵が表紙だ。ヒキガエルは、こわごわとミミズクを見上げている。部屋の壁には、カレンダーが無造作にかけられて、ななめになっている。11、12、13、14……と、日付がバツ印で消されてある。そして、カレンダーに記された16日の火曜日を、大きなマルがかこんでいる。
この日が、ヒキガエルのウォートンがついにミミズクに食べられてしまう、いわば死刑執行日だ。
カレンダーのバツ印が始まる11日は、おそらく、ヒキガエルのウォートンがミミズクに捕らわれてしまった当日なのに違いない。ヒキガエルのウォートンを11日にとらえたミミズクは、その場で彼を食べてしまわず、なんらかの理由でウォートンを16日の火曜日に食べることに決めた。それから一日がすぎゆくごとに、ミミズクは、カレンダー上で残酷なカウントダウンをしているのだ。
……表紙の絵から得られる情報から、このような推察をひととおり行い、それからようやく読みはじめる。
読みはじめてすぐに気がついたのは、主人公のヒキガエルのウォートンの善良さだ。
悠長すぎる、と懸念の声が上がりそうなほどに、鷹揚として、心根がオープンで、親切だ。このような資質は、物語の上でさえ、非常に貴重なものだ。
善良であること、それは、美徳だ。
そして、善良さや“徳”は、それ自体に価値がある。効率や能率といった物差しでは、はかることはできない。
「どうして善良でなくてはならないのですか?」と問われて、どのような答えを私たちは持つだろうか?
そして、もうひとつ大切なこと。善良さとは心根であるのと同時に、具体的な行動でもある。
むしろ、行動こそが、善良さそのものであろう。
私はウォートンのさまざまな活動から、善良とは何か、美徳とは何かを確認し直し、新たに理解し直しもした。
以上が、私の感想だ。
この日記をプリントアウトして、機会をみてお友だちにわたそうと思う。





『ちひろ美術館の絵本画家たち』読書感想文(2003.11.30)

松本猛氏の『ちひろ美術館の絵本画家たち』を読む。
松本猛氏は、1977年に、世界最初の絵本の美術館である『いわさきちひろ絵本美術館』(現ちひろ美術館・東京)を設立なさったかただ。
この本は、その松本猛氏と世界の絵本画家たちの、いわば交友録だ。
登場するのはエリック=カール、長新太、パツォウスカー、ラチョフ、谷内こうた、八島太郎、センダック、ヴィルコン、バーニンガム、それに、スタシス=エイドリゲヴィチュス(!)ら、そうそうたるメンバーだ(敬称略)。
日本では本当に人気がないけれど、私はエイドリゲヴィチュスの絵が大好きだ。
この本には、大好きなエイドリゲヴィチュスを撮影したスナップ写真が、いちまい添えられている。エイドリゲヴィチュスだけではない。きさくなエリック=カールや、気難しいことで有名なセンダックまで、ちゃんといちまいずつ写真が掲載されている。
私は、絵本の絵を描くという不思議な仕事をこなすひとたちを撮影した写真をながめるのが、大好きだ。『絵本の絵を描く人たち』という写真集があれば、即座に買ってしまうだろう。
掲載されている写真は、どれも、なかなかの出来栄えだ。
タチヤーナ=マーブリナの素朴かつ繊細きわまりない表情! この写真だけをいつまでもながめていても、私はいっこうに飽きたりしない。本当にぜいたくな時間だ。実際、写真を眺めるだけで、なかなか本文に進むことができない。まるでこのポートレートそのものが、独立した素晴らしい絵本のようにさえ感じられる。
カーライの、ほんの少しだけ照れたような仕草もいい。ガラス細工に例えることも可能なほどに、美しい笑顔だ。
レニャッツィの笑顔も素晴らしい。この人の絵本はまったく読んだことがないけれど、目じりのしわの見事さときたら! 裏表を感じさせないこの表情が、あるがままの彼女のすべてなのだと、そう信じさせてしまうような真正面からの笑顔だ。当時のアルゼンチンの軍事政権と、絵筆で闘ってきたという過去を持つひとの、ある種の覚悟のようなものを土台とした、笑顔。こんな表情を持つひとの絵本なら、是非とも手に入れてみたい。さっそく、洋書店で物色中だ。
真顔でおどけているエイドリゲヴィチュスも、いかにもという感じがしてならない。何よりも、カメラの前でリラックスしているのがいい。とても貴重な写真だ。
これらの写真は、誰が撮影したのだろうか?
本の末尾に、「撮影者名のない写真は、著者あるいはちひろ美術館撮影」とある。
きっと、松本猛氏が友人として彼らのもとを訪れ、またあるときは、彼らが松本猛氏を訪問したさいに、撮影されたものがほとんどなのだろう。
この本には、それぞれの絵本画家たちのスナップ写真の他に、松本猛氏が交流のさなかに知りえたかぎりの、彼らの人柄についての記述がある。その記述を読むことによって、写真だけを眺めていたときよりもさらに彼らのことを深く知るという作業を、ゆっくりと楽しむ。
ここに登場する絵本画家たちはみな、彼らの描く絵の世界同様に自身もまた独特にユニークで、つくづく不思議なひとたちだ。彼らの強烈な主観を出発点として始まる絵本作りは、妥協を知らない制作姿勢と、豊かな才能、そして遊び心によって、やがて公共的と言ってもさしつかえないほどの傑作へと仕上がる。
子どもの感受性をはぐくんでいくという、ある意味での理想主義的世界の、彼らは住人だ。
別の言いかたが許されるのなら、彼らを彼らたらしめているのは、子どもたちだ。
彼らと、彼らを愛する子どもたちだけが入国を許可されている、ネバーランド。
現実に折り合いをつけつつ、歩み寄り、目をそらし、うっ屈し、混乱を極め、せわしなさと充実感の区別もつかない私たちにとっては、まさしく、別世界のひとたちだ。





絵本『はっぴぃさん』読書感想文(2003.11.29)

遅くなったけれど、読んだ本の読書感想文を少しずつでも書いていこう。
まずは、絵の素晴しさに一目惚れして購入した、荒井良二氏の6年ぶりの新作絵本『はっぴぃさん』だ。
実は私は、荒井良二さんのお名前をこれまでまったく知らずにいた。単なる不勉強である。
荒井良二さんは、世間からも子どもたちからも極めて高い評価を受けている絵本作家さんだということである。
とにかくなんの前知識もなく、絵を見て「あ」と思い、いきなり買ってしまった絵本だ。
さて、読書感想文だが、まだ新刊ほやほやの絵本だから、読んでいない人も多いことだと思う。だから、ここで詳しいあらすじを話してしまうのは、多くの未読の読者にとって、ネタバレになってしまうかもしれない。
なるべくあらすじに触れずに書いてみよう。
『はっぴぃさん』は、実は、絵本を読むという行為そのものを扱った絵本だ。
絵本を読む行為、もしくは、現実を超えていく行為、と言い換えてもいい。
そもそも、絵本を読むとは、私にとってどのような意味を持つのか。
絵本に限らず、物語を読むという行為は、私にとっては現実を超える行為だ。
意識するしないに関わらず、私たちは絵本を読むことによって、現実を超えていく。
そして、絵本によって超えられる現実は、日々、惨憺たるものになりつつある。すでにじゅうぶんひどい有り様の現実が、なおも加速しつつ、すぐ目の前に迫っている大崩壊へとなだれ落ちていく状況を、大人たちは気づかぬふりをして過ごすこともできるが、子どもたちや、それと同等の感受性をもつクリエイターたちは、「家が燃えている!」「人が倒れている!」と、ことあるごとに悲鳴をあげるのだ。
私は、宮崎駿監督の大ヒットアニメ映画『千と千尋の神隠し』を、この絵本から連想した。
作品に流れる空気が、極めて似通っているのである。
当時、『千と千尋の神隠し』を映画館で見始めてすぐに、現実がのっぴきならないところまで来ているという事実を、ストーリーの流れとは別なところで、私はいやというほど再確認した。
この私たちの暮らしそのものである現実が、とんでもなく暗く、陰惨な方向へ突き進んでいることを、クリエイターである宮崎駿監督が敏感に感じているのだという印象を私は受けた。
それはあまりにも強烈な印象で、『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』では、もはやいまを生きる子どもたちにとっては寒々しいきれいごとにしかなりえないのだという、一種の覚悟めいた感慨をも、ともなっていた。
ふとしたことで、現実世界からあやしい向こう側の世界へと足を踏み入れてしまった『千と千尋の神隠し』の主人公、千尋は、ブタに変身させられた両親を最終的に救い、現実世界へと戻ってゆく。
しかし、両親を救いだしてハッピーエンドというには、あまりにもせつなく物悲しい調子のままエンドロールが流れ、映画は終わる。初恋のハクとの別れ、というだけではない、なんとも後ろ髪がひかれる、さびしいエピローグだ。
実は、千尋が戻って行くべき現実世界は、彼女がほんのひとときおとずれたおどろおどろしい向こう側の世界の、何倍も冷酷で、理不尽で、情け容赦なく、何もかもが馬鹿げており、ひとりの子どもが居場所ひとつ見つけることさえ大変な労力を要する世界だ。
私たちの現実に比べれば、魔女たちはキッチリと契約を守る、律義なかたたちだ。私たちの現実世界では、こうはいかない。
絵本『はっぴぃさん』では、銀色の見返し部分に、荒井良二さんの筆によってその現実が描かれている。
荒々しい鉛筆のタッチで、崩壊した街と、その街を蹂躙しつつある戦車が数台。圧倒的な暴力の吹き荒れる殺伐としたその風景こそが、絵本の主人公「わたし」と「ぼく」の現実であり、千尋の帰っていく現実だ。
絵本の主人公「わたし」と「ぼく」も、そして千尋も、一度は乗り越えてみせた現実世界へと最終的には戻ってゆく。戻らなければならない。
『はっぴぃさん』の最後の夕焼け空のページは、これはひとによってさまざまな解釈が可能だろうけれど、ある種の物悲しい不吉さと、子どもたちへのせつない思いの、胸が締めつけられる世界だ。どうか、手にとって、ごらんあれ。
絵本によって、ひとときのあいだ現実を乗り越えてみせた子どもたち(主人公の「わたし」と「ぼく」であり、『はっぴぃさん』の読者でもある)は、あまりにも無防備なまま、山を下り、現実世界へと戻ってくる。
『千と千尋の神隠し』の千尋もまた、現実世界に帰るために、ずっと握りあったままの初恋のハクの手を、最後に、離す。
ふたりの手は、離れる。君の帰る現実という場所は、とっても素敵で素晴しいところだよ、なんて、そんな嘘をつくのは無責任でしかない。しかし、それでも千尋を、そして映画を観る子どもたちを、なんとか勇気づけ、元気づけ、できるなら支えてもあげなくてはいけない。でなければ、一個の作品として、意味がない。
ゼニーバなる魔女からもらった髪留めを、千尋は現実世界に持ち帰る。何もかもが夢まぼろしというわけではなかったのだ、現実世界はさらに厳しく混沌としているが、なんとか生き抜いて欲しいというメッセージだと、私は受け取った。
ふたりの手が離れたあと、千尋はうしろを振り返らない。そういう約束だ。このふたりの手が離れる場面だけを、私は、DVDでくり返し観た。
このシーンをひとことの言葉に要約するとすれば、それは
「グッドラック」だ。

ポエムマンガに戻る / ホームに戻る