前の日記1 / 前の日記2 / 前の日記3 / 前の日記4 / 前の日記5 / 前の日記6

 / 前の日記7 / 前の日記8 / 前の日記9 / 前の日記10 / 前の日記11

 / 前の日記12 / 前の日記13 / 前の日記14 / 前の日記15 / 前の日記16

 / 前の日記17 / 前の日記18 / 前の日記19 / 前の日記20 / 前の日記21

 / 前の日記22 / 前の日記23 / 前の日記24 / 前の日記25 / 前の日記26

 / 前の日記27 / 前の日記28 / 前の日記29 / 前の日記30 / 前の日記31

 / 前の日記32 / 前の日記33 / 前の日記34 / 前の日記35 / 前の日記36

 / 前の日記37 / 前の日記38 / 前の日記39 / 前の日記40 / 前の日記41

 / 前の日記42 / 前の日記43 / 前の日記44 / 前の日記45 / 前の日記46

 / 前の日記47 / 前の日記48 / 前の日記49 / 前の日記50 / 前の日記51

 / 前の日記52 / 前の日記53 / 前の日記54 / 前の日記55 / 前の日記56

 / 前の日記57 / 前の日記58 / 前の日記59 / 前の日記60 / 前の日記61

 / 前の日記62 / 前の日記63 / 前の日記64 / 前の日記65 / 前の日記66

 / 前の日記67 / 前の日記68 / 前の日記69 / 前の日記70 / 前の日記71

 / 前の日記72 / 前の日記73 / 前の日記74 / 前の日記75 / 前の日記76

 / 前の日記77 / 前の日記78 / 前の日記79 / 前の日記80 / 前の日記81

 / 前の日記82 / 前の日記83 / 最新の日記



ポエムマンガに戻る / ホームに戻る




『木綿のハンカチーフ』、『ワインズバーグ・オハイオ』(2003.6.22)

バンバンの『「いちご白書」をもう一度』が聴きたくて購入したCDには、太田裕美さんの『木綿のハンカチーフ』も収録されていた。
これまた、なつかしい。
1975年にヒットした歌謡曲だそうだ。
ストーリー仕立てになっている歌詞は、私の好みに合致する。
ストーリーは、都会に出た彼氏と、田舎に残った彼女との遠距離恋愛が主題で、彼がまず語りかけ、それに彼女が答えるという形式で、ワンコーラスずつ進んでゆく。
携帯電話など影も形もなかった時代、ふたりのやり取りは、手紙によるものではなかったか、と私は推測している。郵便によって受け取った手紙を読み、いそいそと返事を書く、というやり取りのなかに存在する物理的な書き手と読み手のタイムラグは、ふたりの心の距離そのものだ。
都会の生活に夢中になる彼氏の姿は、田舎でひっそりと帰りを待つ彼女にとって、すでにある種の不吉さを予感させる。
ワンコーラス、ツーコーラス、スリーコーラス、と物語は徐々に高まりつつ進行し、そして四つ目のコーラスにいたったとき、関係の瓦解、恋愛の破綻へと物語は急転する。彼女は、いちもにもなく悲嘆に暮れる。そして、その深い悲しみのさなかで、彼女は彼氏への最後の手紙をしたためる。
とうとう、物語のクライマックスだ。その悲しみの頂点において、なおも表を張って対応する彼女の姿を、ひとことの言葉へと集約することに成功したとき、「木綿のハンカチーフ」というタイトルの意味がようやく明らかになる。
この、表を張ってみせるという彼女の対応に、私は惜しまぬ拍手を送りたい。
人生の一大局面で、自分自身に報いるために、耐えて、苦しんで、かっこうをつけて、理解する……それで高められない人生はない、と、背伸びをして言いきっちゃっても、さすがにかまわないと思うのだ。

さて。話が変わるけれど、実は私は、『木綿のハンカチーフ』という曲を聴くたびに、かならず思い出してしまう小説がある。
シャーウッド=アンダソンの『ワインズバーグ・オハイオ』だ。
1919年にアメリカで出版された小説で、日本でいうと、大正8年。ずいぶん古い小説だけれど、テーマはじゅうぶん以上にいま的だ。……などと書くと、この名作に対して、極めて失礼な物言いになってしまう。
『ワインズバーグ・オハイオ』と、声にしただけで、「私がまったく知らないところでこれほどの小説が存在していたのか」という驚愕とともに、それを読んだときの深い感銘が呼び起こされる。
語りだすときりがないが、ここは、『木綿のハンカチーフ』にまつわる話題に限定しよう。
『ワインズバーグ・オハイオ』は、短編連作という形をとっている。物語はそれぞれに独立しているが、小説の舞台背景はすべてオハイオ州ワイズンバーグという架空の田舎町になっている。
それらの22編の短編のなかに、『冒険』というタイトルの物語がある。
アリス=ヒンドマンという内気な女性の人生が、この『冒険』では語られる。
アリスもまた、オハイオ州ワイズンバーグで暮らしている一市民だ。
アリスは16歳の時、町のある若者と恋に落ちる。しかし、彼氏の方は、ジャーナリストの職を求めて、クリーヴランドへと旅立つ。
いっしょについて行く、と言う彼女に、かならず迎えに戻ると彼は言い残す。その言葉に偽りはない。
しかし、何年経っても彼は帰らず、とうとう手紙のやりとりもとだえてしまう。
それでもアリスは、彼が約束どおり迎えに来てくれるのを辛抱強く待つ。
彼女は働き、ふたりの新しい生活のために、地道に貯蓄にはげんだりする。
歳月がながれ、彼女は27歳になる。
相変わらず、彼女は独りぼっちだ。
内気で、外出を控えてきた彼女には、友人らしき友人もいない。
1919年(大正8年)という年代を思い浮かべたとき、先進国アメリカとはいえ、小さな田舎町でこの歳まで独り身というのは世間的に、反社会的とまでは言わないまでも、奇異な存在に映るだろうことは理解できる。
そんなおり、ある男性が、おずおずとながら、アリスに近づいてくる。
彼女に負けず劣らず内気な男は、もどかしいくらい遠まきにではあるが、彼女に親切にふるまい、関係を少しずつ深めてゆこうとする。そんな彼に、彼女も好意を持っているのだが、
「私の求めているのはあの人じゃないんだから」
と、自分に言い聞かせる。
やがて、どうしたことか、彼女はだんだん、彼と逢うのに耐えられなくなりはじめる。彼女は、ほとんど発作的に、彼を拒絶する。気弱な彼は、それ以降彼女の前に姿を現さなくなる。
再び彼女は独りぼっちになる。
16のころに恋したあの彼が帰ってくるとは、もう彼女も思ってはいない。
このころから彼女は、何でもないことですぐに気分が高ぶってしまうようになる。仕事の疲れがとれず、そのくせ夜は眠れない。
今では彼女はベッドのなかで、毛布を人に見立てて抱きしめ、
「どうして何も起こってくれないの? どうしてわたしひとりが、ここに残されているの?」
と小声でつぶやいたりする。
焼けつくような飢餓感と、抜け道のない閉息感に、彼女の精神は日増しに鬱屈する。
「いったいわたしはどうなってしまったんだろう? 気をつけないと、そのうち何か大変なことをしでかしそうだわ」
と、ひとり大声で泣き叫ぶアリス。
物語はこうして、衝撃的なラストへと繋がってゆく。最後の2ページは、圧倒的な力量を持つ作家の手による、驚愕の結末が待っているのだが、最後までぜんぶ話してしまうのは、野暮というものだろう。
『ワインズバーグ・オハイオ』を読み進めているうちに、アリスに限らず、ワイズンバーグで暮らす市民のすべてが、なんらかの形で、孤独や疎外に苦しんでいることに気がつく。
アメリカの孤独、というテーマが、このころからすでに有効であったという事実に、私は驚く。
『木綿のハンカチーフ』のテーマがそうだとは、さすがに思わない。
『木綿のハンカチーフ』を聴いて、私が『ワインズバーグ・オハイオ』の『冒険』を思い出すのは、都会に出て行く彼氏と残る彼女、というシチュエーションによるものだ。
『木綿のハンカチーフ』の彼女を、アリス=ヒンドマンと同一視することは出来ない。
だが、紆余曲折を経て、『木綿のハンカチーフ』の彼女もまた、似たような境遇に落ちついているという別の物語も、けっしてありえない話ではないだろう。








いちご白書をもう一度をもう一度(2003.6.21)

またまたCDを購入してしまった。
バンバンの『「いちご白書」をもう一度』だ。
なつかしい。
ユーミンが、バンバンのためにかき下ろした名曲だ。
前々から欲しい欲しいと思ってきたけれど、ここまで引っ張ってしまったのは、実は、ボーカルがユーミンの盤がないかとずっと探していたのだ。
しかし、どこにもない。
最近知ったのだけれど、ユーミン自身は自作『「いちご白書」をもう一度』を気に入ってはおられないらしい。気に入っていないどころか、この曲を自分の作品と発表してしまっていることに後悔さえしておられると聞いた。
へえ、と、一瞬だけ少々気押されたような気持ちになりつつ、首をかしげて考え込んでしまう。
理由は推測できないわけではないが、それはきっと、ユーミンが大衆に向かって絶えず発揮していなければならない颯爽としたイメージに、『「いちご白書」をもう一度』の曲全体に流れている一種の女々しさのようなものが、マイナスに働いてしまうということなのではないか。

私は、ユーミンの特有の平坦な歌唱法が好きなので、ユーミン自らにこの名曲を歌っていていただきたかったが、嫌っているのなら致し方ない。話はそれるが、ユーミンの歌唱法は、ある種の客観性というか、三人称的距離感のようなものを歌の世界に持ち込むための、苦心の末に編み出された方法論だったのではないか?などと、私は勝手な想像をしていたりする。
さて、『「いちご白書」をもう一度』の“もう一度”とはなにか?
実は、『いちご白書』というアメリカ映画が実在する。映画『いちご白書』は、原題を『THE STRAWBERRY STATEMENT』というそうだ。
その実在する映画にまつわる、映画とは別の非常に良く出来たフィクションが、『「いちご白書」をもう一度』になる。
歌の中の主人公であるフィクション上の男性は、実在の『いちご白書』という映画を観た数年前の自分自身を呼び戻そうとしている。しかし、過ぎてしまった過去を呼び戻すことなど不可能だ。無理でも呼び戻したい。どうやって? どうしようもない。
どうしようもなくたって、彼は望むことをやめない。4分36秒間の歌の世界で、具体的な理由の記述こそないが、彼にとって現在はきわめて不満足な状態であり、許容できる範囲を逸脱している。彼の現在は当然本人によって否定され、満たされていた当時の自分が存在していた過去への回帰を、彼は苦悶に身をよじりながら模索することになる。
あのころに観た映画『いちご白書』が町の映画館で再上映される、そのニュースをきっかけにして、過去をもう一度呼び戻したいという欲求は、彼の心の中で抑え難いまでに高まる。
……こんなめそめそしたフォークソングの世界は、ユーミンのイメージにそぐわない、と言われてしまえば、返す言葉がない。しかし、時間と場面の切り取りかたは、まさしくユーミンだと思わず拍手したくなる名曲だと私は思っている。








映画『ソラリス』リメイク(2003.6.20)

タルコフスキー監督の傑作SF映画のリメイク『ソラリス』が、21日から上映されるそうだ。
タルコフスキー監督作品をリメイクしようという人間がこの世に出現するとは思ってもいなかったから、その点については興味をそそられている。
この作品には、タルコフスキーの映画のさらに前に原作小説があって、それは、スタニスワム=レムの『ソラリスの陽のもとに』というタイトルのSF小説だ。
今回のリメイクは、レムの原作の再映画化ではなく、タルコフスキーの映画のリメイクであるらしい。
しかし『惑星ソラリス』は、『ストーカー』と並んで、名高いタルコフスキー作品の中でも、非常に多くの人たちから最上級の評価をうけている映画的古典といっていい作品だ。
何度も何度も繰り返し鑑賞しなおしても、飽きるどころか、なおも新しい感動と発見に酔える、そういう映画である。
これほどの名画中の名画を前に、そんじょそこらの才能や覚悟でリメイクに挑んでも、何も出来ないまま、前作の完成度に振り回され地べたにたたきつけられ、最後に挫折感だけを噛みしめて終わってしまうことになるだろう。
そもそも、アメリカのハリウッド映画がタルコフスキー作品に手を出した、という状況には、極めて雲行きがあやしいというか、内容的に不吉なものを感じずにはおれない。
誰がどういうつもりでリメイクしようとしたのかは知らないが、何もかもを台なしにしてしまうのではないか、という強い危惧を私は抱いている。
だが、どうしようもない。
タルコフスキーの撮ったすべての映画は、作品個々の出来不出来とは別に、もうこれはタルコフスキーしかありえない、これ以外など存在しない、他の可能性などひとかけらもない、と確信させるほど一部の隙なく、神々しいまでにずしりとした主観的なリアルさに満ちている。
彼の映像は単に美しいというだけにとどまらず、ロシア文学的な暗み、微熱を誘う苦悩、宗教的な意味性を内包する。映画の中で流れていく濃密な時間は、彼の宗教観、世界観に基づいた映画理論に貫かれている。そして、ここで言う「意味」とは、価値のことだ。
そして、価値とは、人間の主観の中に存在するのだとする一貫した主張が、彼の映画にはある。
少なくとも、人間的価値というものは、主観的なものだ。
タルコフスキーの映画を、崩壊する客観と、主観にもとづく人間的価値、というキーワードで眺めてみると、彼の作品の奥行きはさらに増してくる。
彼の映画作品に共通する謎めいた世界観についてもう少しだけ話してみたい。
彼の映画に満ちる謎めいた主観的仮説を私なりに説明すれば、「現実は私たちの現前から巧妙に隠されている」というような主張となる。
現実に手を触れたい、世界の本当の姿に触れてみたい、という願望……登場人物たちの行動の動機は、『惑星ソラリス』でもその他の作品でも、みな、同じだ。
生の現実、リアルな現実の真の姿は(乱暴極まる比喩を使うことをゆるしてもらうならば)、薄ぼんやりとした半透明のカーテンの向こう側にあり、私たちの知っている現実は、実はそのカーテンの模様を指しているに過ぎないというような、単純化して言葉にすると、そういう世界観だ。
では、カーテンの向こう側には、いったい何が存在するのか?
それを捜しだし、見いだそうというのが、映画全体の中心的テーマだ。
そうした世界観、宗教観を前提とした映画なのだから、したがって、ストーリーの進行とともに、映画は何やら得体のしれない観念と強い意志のようなものに満たされ、そして息づまるような緊張感を高めてゆく。
タルコフスキーが撮った映像、例えば風景の映像などは、隠された謎、サスペンスそのものであって、我々が知る日常の退屈な風景とは別次元のものだ。
それが、難解でありながら観るものを最後まで飽きさせない仕掛けにもなっている。

タルコフスキーの映画は、タルコフスキーにしか撮ることが出来ない。
だが、リメイク映画が出来たとなれば、今後『ソラリス』と言えば、タルコフスキーの映画ではなく、新しいリメイク版を指すようになるのだろう。
この件に関しては、タルコフスキーファンとしては少し残念だ。
残念ついでに言えば、最近どうも、タルコフスキーには逆風が吹きつづけているような気がしてならない。
例えば、『ストーカー』と言えば、私の中ではタルコフスキーの映画『ストーカー』なのだが、どうやら世間では、片思いの相手の意志を無視して、どこまでもつけまわす行為者のことをさすらしい。
「好きな映画は?」
と訊かれて、
「ストーカー」
と答えると、
「ああ、そういう映画ね」
なんて言われたりする。そのときの相手の意味深な顔つきには、ほとほとげんなりする。
むろん、タルコフスキーの映画の『ストーカー』は、“潜入者”というような意味で使われていて、“そういう映画”などではまったくないのだが。
ちなみに、調べてみると、ハリウッド映画でも『ストーカー』というタイトルの映画があるらしい。
こちらの映画は、タルコフスキー作品のリメイクではなくて、別作品の同タイトルということだ。
主演はロビン=ウィリアムズ。
こちらは本当に、「つけまわし」の映画らしい。
いよいよ、タルコフスキーへの逆風だ。
少なくとも『ストーカー』に関して言えば、非常につらいことになってしまったと、思わず苦虫をかみつぶしてしまう。
最後に。
タルコフ好き〜。
……ゴブホッ。
すんませんでした。








今日と明日はテレビドラマの日。(2003.6.19)

先週の木曜日は、久しぶりにテレビドラマを観た。
夜の9時から放送されている『動物のお医者さん』だ。
この『動物のお医者さん』は、佐々木倫子センセの大ヒット漫画をドラマ化したものだ。
そして、翌日金曜日には、同じく大ヒット漫画をドラマ化した『ブラックジャックによろしく』が夜の10時から放送されている。
これも先週、観た。
木、金と、二日つづけてテレビドラマなんぞを観ていると、何やら少し、身を持ち崩してしまったような気持ちになる。もっとも、罪悪感は私の愛用の感情だから、自分が身を持ち崩しているのだという確証は、至る所で見つけることができるのだけれど。
話がそれた。
『動物のお医者さん』と『ブラックジャックによろしく』は、まったく方向性が違うが、どちらの原作漫画も大好きなごひいき作品だ。これらのお気に入り作品が、どのようにテレビドラマ化されているのか、一度観ておきたいなあという誘惑に私は勝てなかった。
かならず失望に終わることは、鑑賞する前から理解しつつも、原作とテレビドラマはまったく別のものだとしっかり認識していれば、それなりに楽しめるはずだ。
そして、観た。
鑑賞し終わって私が個人的に思ったのは、原作のクオリティーに遠く及ばないこれらのドラマを先に観た人たちは、原作のほうにけっして興味を持とうとしないのではないかというぼんやりとした危惧がひとつ。
そして、もうひとつは、漫画をドラマ化することの難しさだ。
エピソードのひとつひとつや、セリフの使い方を原作どおりに忠実に再現しても、例えば、大学の獣医学部の日常会話や、大学病院の研修医の詰め所での同僚との会話の雰囲気などが、テレビのほうでは再現できていないようだ。これは、演出の問題だ。
テレビドラマといえば、例えば『ふぞろいの林檎たち』で行われていたようなカメラワーク、演出の完成度を当然至極として受けとめていた年代の私としては、久しぶりに観るテレビドラマのそれは、ちょっと驚いた。
驚いたというのは、稚拙さ、というものではなくて、演出に対するそのおざなりさだ。
作り手のおざなりな気分というのは、ハッキリ伝わってくるし、観ていてけっして楽しいものではない。
と、余計なことをまた口走る私。

話題が変わるが、ドラマ『動物のお医者さん』の主要人物たちがかよう大学の、公衆衛生学部で使用されているパソコンはMacだ。
前回の一回こっきりしかドラマを観ていないので、主人公ハムテルたちの所属する獣医学部がどうなっているのかはわからないが、これもおそらくMacだろう。
素晴しい大学だ。
(;^-^ゞ
しかし、ドラマ中のハードウェアは確かにアップル製品だったが、使用OSがクラッシックMacOSだったか、MacOSXだったかは私には確認できなかった。
クラッシックか否かで、大きく違ってくるのだが。
賃金欲しさに、いやいやながら仕事するためのパソコンは別にしても、お勉強に使うパソコンは、Mac(クラシック)を使うほうがいいだろう。
もうひとつ。
ドラマ『動物のお医者さん』のエンディングテーマは、名曲『朝陽の中で微笑んで』だった。
コメディタッチのドラマにはそぐわないのに、誰がどうしてこの曲を選曲したのかはわからないが、ともかく名曲だ。
ユーミンが荒井姓のころに発表した曲だが、ここで歌っているのは、私が知らない別の歌手だ。曲自体は、オリジナルよりもしっとりとドラマチックに歌い上げるようなアレンジになっている。
こちらの新アレンジ版の方が、より万人受けしやすいのではないか。
弟は、エンディングを見届けながら、
「この曲、こんな良かったかなあ?」
などと首をかしげていた。
とんでもないやつだ、まったく。
ドラマ『動物のお医者さん』を鑑賞するかたは、どうかことのついでに、エンディングまでじっくりチェックしてみて下さいまし。








カレーライスを作りながら思うこと(2003.6.17)

今日は私が晩ごはんを作る。
お決まりのカレーライスだ。
しかし、市販のカレールウは使わない。いや、使えないのだ。
けっして、本格カレーライスを作ろうというのではない。
あの狂牛病騒動以降、我が家では、『牛骨粉』が使用されている食品をいっさい使わないように努めている。
私は、東京に在住していたころ、安い牛丼を毎日のように食べていたので、すでに脳の中にプリオンが巣くってしまっているかもしれないと半ばあきらめているのだが、弟は、脳細胞をカスカスのスポンジにされまいと、極めて神経質になっている。
そうなってくると、冷凍食品はほとんどだめ、固形コンソメもだめ、できあいのお総菜もだめ、外食もだめで、日に三度の食事の工夫が、非常に面倒だ。
しかし、弟がけっして口にしないとわかっているものを作っても仕方がない。
それで、本格“もどき”カレーを作ることになる。
カレー特有のとろみを出そうと小麦粉を使うと、加減がなかなかうまくいかない。
なので、私は、小麦粉は使わず、タマネギをみじん切りにしたものを、うっそ〜というほど盛大につぎ込んで、とろみにしている。
お肉は牛ではなく、地鶏。お野菜も、ジャガイモ、ニンジン、タマネギは、無農薬、もしくは低農薬のものを使用する。
しかし、これで本当に安全な食事だと言えるのかどうか、わからないというのが実情だ。
「無農薬」と書かれたラベルが本当に無農薬を意味するものなのか……。
「国産」と書かれたラベル表示は、正しいのか……。
有名ブランドの大手食品会社が、バレないかぎりとことんまで嘘をつくさまを、私たちは見てきた。
嘘がバレて、記者会見場に引っ張り出された彼らの言い草は、いつも奇妙に一致する。
彼らの言いぶんはこうだ。
『ほか(ライバル会社)もやっているので、うちもやらないとソンをこく』
悲痛な面持ちを崩さずに、こういうたぐいの主張をかならず、する。
そこには、国民の健康維持という概念は、最初からきれいさっぱりと切り捨てられている。
我々が毎日食べているお肉、お野菜、お魚は、この日本では一種の工業製品と認識されていると言っていい。それも、きわめてずさんな生産過程をへて手元に届く、粗悪品だったりする。
国民の健康は、明日の日本を支える糧となるはずだが、そもそも、我々の存在など彼らの眼中にはない。
彼らとは、私たちのことだ。
私たちは、私たち自身のことを切り捨てて社会を運営するという、おかしなシステムのまっただなかで、無理を極めたような、いびつな生活をしている。
新聞の片隅に小さく、興味深い記事を見つけた。
厚生労働省は妊婦に対して、有害な水銀を含むメカジキ、キンメ、アマダイ、サワラ、サメなどのお魚の摂取を週2回までにひかえるよう注意を促しているそうだ。
うん?
妊婦のみなさまはちゃんと注意されていますか?
もう一度。
有害な水銀を含むメカジキ、キンメ、アマダイ、サワラ、サメなどのお魚の摂取を週2回までにひかえるように、だそうですよ。
これがどういう意味なのか、考えるだに恐ろしい。
我々は、知らぬうちに、潜在的なイタイイタイ病患者なのだ。
食物連鎖の最終段階で、汚染は極限まで高められる。
その汚染の行き着く先は、お母さんのお腹の中の、胎児だ。
はたして、この子たちの運命は?
……。
これが今日の私たちの食卓だ。
さて。
おそるおそるカレーを食べるとしよう。








漫画『振袖いちま』3巻とペパミントアイスクリン(2003.6.16)

須藤真澄センセの漫画『振袖いちま』の3巻を読んだ。
この3巻は、雑誌の連載が中断されたまま長いあいだ単行本化されることがなく、いわば幻のエピソードだったものを、去年の秋に書きおろしページを加えて、ようやく発行された待望の最終巻だ。
物語は、魂を宿した市松人形、大正生まれの“いちま”が主人公だ。
そして、もうひとりの主人公が、女子高生、“ゆき”だ。
詳しい感想は、5月28日の日記に書いているので、興味のあるかたは、こちらにどうぞ。
2003年5月28日の日記

さて。
“ゆき”のひいおばあちゃん(故人)の嫁入り道具だった“いちま”は、大正という時代の制約で、当時のひいおばあちゃんが叶えることができなかった想いを、“ゆき”を通して実現しようとする。
それは、「大恋愛を体験してみたかった」というような夢想から、「海を見てみたい」という生活からの逃避まで、種々雑多だ。
人形に向かって独り言として漏らしたひいおばあちゃんの願望は、ひ孫である“ゆき”が、独力により、すべて実現していかなければならない。
実現すべしと、“いちま”が、強く要望するためだ。
“ゆき”の受難は、全ページを通して、コミカルに切なく、一貫して続く。
ある夏の日。
ひいおばあちゃんは、ペパミントアイスクリンというお菓子を一度食べてみたいと、夫に語っていたことがあるのを“いちま”は覚えている。
「まあっ どんなものですのそれ!?」
「わたしもいつか 食べてみたいわあ」
頬を染めて、ペパミントアイスクリンに思いをはせる若きひいおばあちゃん。
遠い記憶に目を細める人形“いちま”。
ペパミントアイスクリンとは、今で言う、アイスキャンディーバーをさすものらしい。
もちろん“いちま”は、“ゆき”にペパミントアイスクリンを食べさせようとする。
うっとりとしてしまいそうなアイスクリンという響きが素晴しくて、なるほどそれは食べてみたいと、2003年の現在を生きる私ですら、思わず興味をそそられる。
となると、市販のアイスキャンディーではだめだ。ふたり(ひとりと一体?)は、ペパーミントの栽培からはじめる。
“いちま”のこだわりに振り回されて、腰をかがめ、せっせとハーヴ作りをするのは“ゆき”ひとりである。
「最高の一口にいたしましょうね!!」
夢中になって、鼻息をもうもうと吹き上げている“いちま”。
頭の中がペパミントアイスクリン一色になって、嬉々としている“いちま”を見ていると、“いちま”を失望させたくない、このまま喜ばせてあげていたい、と、いつものように“ゆき”は観念してしまう。
なんて身勝手な、と不満や怒りを覚えつつも、“ゆき”も自分と同様に楽しみ喜んでいるものと信じきっている“いちま”を、がっかりさせたくないという心理。
なんとか“いちま”を幸せにしておこうと苦闘する“ゆき”は、与えることによって、“いちま”の笑顔という贈り物を受け取っているのね。
“いちま”をこんなにまで喜ばせてあげられるのは、“ゆき”以外にはありえない。
だからこそ、今日も“ゆき”は、“いちま”と対等以上に幸福だ。

本を途中で閉じ、私は、近所のスーパーに出かけ、アイスキャンディーを物色した。
“いちま”のことが大好きになってしまった私が、“いちま”の大切な思い出にも強い興味を抱くのは、これは必然だ。
かといって、ペパーミントから栽培したりする情熱までは、さすがにないのだが……。
奥行きのある冷凍陳列棚の中をのぞく。すると、探してみるものだ。ペパーミント味ではなかったが、昔懐かし『アイスクリン』という名称で販売されているアイスキャンディーを見つけた。
箱入りで、アイスキャンディーが12本収まっている。
「スペシャル・ペパミント・アイスクリンですのよ!」
“いちま”の得意げな声が今にも聞こえてきそうだ。
外箱に短い講釈が書いてあって、それによると、アイスキャンディーが日本で最初に食べられたのは「横浜馬車道通り」という説が最も有力なのだそうだ。当時それを「あいすくりん」と呼んでいた、と、ちゃんと明記してある。
これで、じゅうぶん、満足だ。
かすたぁど味のアイスクリンを食べた。
確かに、懐かしいような気がしてくる、なぜだろう?








安全保障のための供物、韓国編・日本編(2003.6.15)

韓国で、ふたりの女子中学生が駐留米軍の車両にひき殺される事件が起きてから一年が過ぎた。ワールドカップサッカーの開催期間中の事件であったこともあり、ニュースでもわりと取り上げられていた事件だ。
もう、一年になるのか。
今月13日、韓国の89箇所の都市で、市民による追悼集会が開かれたそうだ。
手もとの新聞に、ソウルの市庁前の写真が掲載されている。
上空から俯瞰した市庁前の広場を、オレンジ色の小さな光の群れが埋め尽くしている。これは、人々の手に一本ずつ掲げられたロウソクの光だ。
ものすごい数の光の海だ。
手もとの新聞によると、韓国全土で、約15万人の市民の参加があったということだ。
この集会は、ふたりの中学生の追悼の場であると同時に、反戦、平和を訴えるための集いでもあった。
同じ日の新聞の片隅に、沖縄で、日本人女性が米海兵隊員にレイプされたという記事が載っていた。
しかし、こちら日本では、韓国のような集会どころか、事件そのものを知らないひとたちが大多数ではないだろうか?
アメリカの駐留兵による犯罪は、日本では今年に入ってから何件目だろう?
インターネットで探せば、答えは見つかるはずだが、どうにも気が重く、現実の数字を確認する勇気がなく、どうしても調べる気がおきてこない。
沖縄が日本に返還されてからこっち、アメリカ兵にレイプされた女性の数は、事件として扱われたものだけ数えても相当なものであるはずだ。
今度のレイプ事件については、アメリカ軍の
「好意的考慮」により、起訴前に、犯人の身柄は日本に引き渡される予定だそうだ。
……うん?
「好意的考慮」ってなんだろう?
彼らの言う好意ってなんだ?
レイプ犯を引き渡すのは、アメリカ政府の好意ですよ、と、私たちは念を押されているのだ。
テレビを見ていても、ニュース報道では、阪神タイガースの2位とのゲーム差の話はすれども、沖縄の強姦事件についてのは、まったくなされないか、スポットニュース扱いだ。
ジャーナリズムのこの腰の引けかたは、何だろう?
沖縄でレイプされた女性たちは、日本の安全保障のための、供物なのか?

あらゆる政治、政党は、かならず腐敗するのだという根強い意見がある。もしかしたらそうなのかもしれないね。彼らによると、あらゆる市民運動も結局は政治活動なのだから、同じくかならず腐敗する、ということになるそうだ。
反戦活動から、町内会の運営に至るまで、政治活動はかならず腐敗する。
本当だろうか?と、私はその点に関しては首をかしげる。
そうだとしたら、よれよれと頼りなげにでも機能している我々の自由と民主主義……身分制度の廃止、義務教育の施行、女性の参政権、エトセトラを実現してきたのは誰だったのか?
リンカーンやケネディ、スターリン、毛沢東、伊藤博文、吉田茂らなのであろうか?
我々が日々恩恵を受けている、市民としての権利獲得の歴史について知りたければ、むしろ、先にあげたひとびとが抑圧し、殴りつけ、おどし、抹殺してきたひとたちに注目すべきだろう。
そして、我々は、問題の本質に気がつくことができるはずだ。
アメリカにおける過激な黒人解放運動で知られるマルコムx という人物は、自分たち黒人を抑圧する白人どもを排斥すれば、黒人の自由が訪れると信じて活動していた。
ところが、自分たちの故郷であるアフリカの地を訪れたときに、マルコムx はショックを受ける。
そこでは、黒人による黒人への差別、抑圧、搾取が横行していたのだ。
黒人が黒人を差別し、搾取するなんて、そんなバカな!
そして、マルコムx は、問題の本質は肌の色ではなく、差別、抑圧、搾取そのものなのだと気がつく。
そのあとすぐに、撃ち殺されちゃうんだけれど。
(;-_-ゞ
マルコムx という人物そのものは、私は好きではないのだけれども、この逸話は心に残っている。








山村浩二氏の短編アニメ集の感想文(2003.6.10)

山村浩二氏の短編アニメ集DVD『山村浩二作品集』の感想文を書いてみよう。
正式なタイトルは、『ニュー・アニメーション 山村浩二作品集』となる。
私は弟の薦めで、山村監督のいわゆる子ども向けに作られた短編を、2作品ほど鑑賞したことがある。
NHK教育などで放送されていたクレーアニメ
『パクジ』や、『カロとピヨブプト』を制作されていた人、というと、小さなお子さんを御持ちのお母さんがたのなかには、
「ああ、あれなの!」
と喜ぶ人も多いのではないか。
私の弟は喜んだ。
喜んで喜んで、山村監督の子ども向けの短編アニメは、弟の大変なお気に入り作品となった。
しかも弟は自らだけでは飽き足らず、NHK教育と聞いただけで眠くなる私を引きずるようにして『カロとピヨブプト』のうちの一本を私に鑑賞させたのだ。
そして、私もまた、山村作品に注目するようになったのである。
DVDに収録されているのは全部で12話。
学生時代に制作した最も古い作品から最新作『頭山』までを、年代順に鑑賞してゆくという構成だ。
ひととおり鑑賞して感じたのは、やはり、子ども向けに作られた作品の方が断然面白いという事実だ。
面白い、などという表現では生ぬるすぎて、傑作、本当の傑作、見事な傑作、と傑作の上にさまざまな形容詞をつけてもまだ足りない。
具体的には、『パクジ』や、『カロとピヨブプト』、『キップリングJr』、『キッズキャッスル』といった作品群だ。
私は地団駄を踏んで、激しく手を叩き、大声で叫びながら喜んだ。
こういう喜び方をしたのは、幼少のころ以来だろう。
実際のところ、私が本当に幼少だったら、興奮のあまり顔を真っ赤にして、額に血管を浮き上がらせて、卒倒してしまうのを周囲の大人が心配しなければならないほどに喜んだのではないだろうか?
ズバリ、山村監督は、小さいひとたち向けのアニメを作るにあたって、相当に周到に小さいひとたちとつきあい、訊ね、遊び、観察をくり返したのではないかと思う。
そうした準備は、作品の完成にあたって、見事にむくわれていると言える。
子どもたちにははっきりと見えているのに、現実にかぶれた大人たちにはとうてい計り知れない何かを、山村監督は見事に映像化していた。
「ちいさいひとたち向け」という制約が、とほうもないほどの豊かな才能に刺激を与え、新しいアイデアと工夫をひきだしているのだろう。
弟はそれを一言で、
「イマジン」
と表現した。
ジョン=レノンの歌のタイトルにある、あの「イマジン」、知的に働かせる想像力。
まさしく、山村監督は、「イマジン」の映像作家なのだろう。
ひとつひとつの作品は、非常に短い(特に子ども向けの作品)ので、あらすじはひかえよう。
お子さんのいる家庭では、『頭山』などの大人向けの作品はとばして、いわゆる子ども向けの『パクジ』、『カロとピヨブプト』、『キップリングJr』、『キッズキャッスル』といった作品だけを子どもと楽しむといい。
それでもじゅうぶん安い買い物だと思う。
これほどの感銘は、お金ではけっして買えない。
生きていてよかった。(*^▽^*)
地団駄踏んで楽しんだなんて、それだけでうれしい。
みなさんは、子どもといっしょに、声をあげて、床を転げ回って楽しんでください。








椎名林檎さんのCDと『ヤサシイワタシ』の主題歌(?)(2003.6.9)

椎名林檎(敬称略デス)のアルバム『無罪モラトアム』を引き続き聴いている。
音楽って、繰り返し聴いていると身体になじんできて、いよいよ、いい感じになってくる。
お友だちが好きな『茜さす 帰路照らされど・・・』という曲を何度もリピートする。

♪ヘッドフォンを耳に充てる
 アイルランドの少女が歌う
 夕焼けには切な過ぎる
 涙を誘い出しているの?
 (中略)
 今の二人には確かなものなど何も無い
 アア……
 たまには怖がらず明日を迎えてみたいのに♪

という歌詞が、素晴らしい。
恋しさを互いの全身に染み渡らせながらも、愛のさなかに寂しさの先触れを感じつつ、やがて訪れるあまりに大きな喪失を予感して、明日を恐れる恋人たち。
私、酔いしれちゃいます。
細かいことを言うようだけれど、
「アア……」
という声にならないつぶやきのあとに、
「たまには怖がらず明日を迎えてみたいのに」
と続く弱音がたまりません。
(;^-^ゞ
思わず、オマル=ハイヤームの詩の一部を引用したい気分だ。

おまえたちはもうじゅうぶんな悲しみを抱えている。
悲嘆に暮れるべきは、その種が蒔かれたあとであって、
その前ではないのだから。
(大森望氏訳)

聴いているうちにひらめいたのだけれども、この曲は、樋口アサせんせの漫画、『ヤサシイワタシ』の主題歌にぴったりのイメージではないだろうか。
って、勝手に何言ってるんだか、と自分に突っ込みを入れつつ。
(;^-^ゞ
椎名林檎の濃密でエキセントリックな歌唱法に、刹那的かつ破滅的なヒロイン、唐須ヤエのキャラクターが重なる。
あ、涙が(笑)。
誘い出された涙、だね。(;^-^ゞ
頭の中の架空の設定に、はまってしまった私。
キマっちゃって、涙が止まんないよ。
(ρ_;)ううう。うううー。
エンドロールとともにこの曲が流れてきたら、私、息の根が止まってしまうのではないだろうか?(おおげさ)。
誰か、ドラマ化か、アニメ化してくれないかのう。
ちなみに、挿入歌には『丸の内サディステック』のサビ部分をお使いください(誰に言ってんだろ?)。
つーか、

♪マーシャルの匂いで飛んじゃって大変さ
 (中略)
 そしたらベンジー、あたしをグレッチで殴って(ぶって)♪

って歌詞、ヤエのために作ったみたいにキマリすぎて、ちょっと怖いよ。

**********************************************

勝手に主題歌シリーズ、さらに。
実は、『神戸在住』の主題歌が決まらず悩んでいる(いや、悩んでどうなるというわけではないんですが)。
(;^-^ゞ
こうやって、作品が作者の手を離れて、私だけのものになって行く過程が、大好きだ。
で。
『神戸在住』の主題歌は、エンヤ等いわゆる癒し系で押し通すのが無難だが、それだと、まんま過ぎて個人的には納得できない。
ここは、意外なところから攻めたいところだ。
とりあえず挿入歌には、m-floの『magenta rain』はどうだろうかとは思ってる(と聞かれても誰もがお困りになるでありましょうが)。
林浩と和歌子ちゃんのテーマとして使うのだ。
ちなみに、私は、マゼンタという色の言葉の響きが大好きなの。
マゼンタ色の雨。いいタイトルだ。
……こういうことばっかり言っていると、気がつけばみんな退いてしまって、まわりに誰もいなくなるから気をつけよう。
(;^_^ A

**********************************************

そう、今日は、山村浩二監督の短編アニメ集DVD『頭山』の感想文を書くのだった。
……。
えーと、ちょっと、まって。
感想文は、明日でいい?
(;^-^ゞ
いろいろ、ありまして。
すっごく面白そうだよ、と、ヒキだけは作っておいて、また明日。








椎名林檎さんのCD、ラフマニノフのピアノ協奏曲集、
DVDアニメ購入。
(2003.6.8)

インターネット書店Amazonから、さらに、注文していたアニメーション映画のDVDと音楽CD2枚が届いた。
まだなんか買っていたのか、と、自分でも、もう苦笑するしかない。
DVDは山村浩二氏の短編アニメ集『山村浩二作品集』、音楽CDはラフマニノフのピアノ協奏曲集『Rachmaninov Piano Concertos1-4』と、椎名林檎(イメージ的に敬称略かなと……)の『無罪モラトアム』だ。
椎名林檎の歌は、ラジオで『罪と罰』というドストエフスキー的タイトルの曲を一度だけ聴いたことがあって、そのときは、
「なんか、おっかなそうだなあ」
という、それだけの印象だった。
基本的におっかないものが苦手なの、私。
(;^-^ゞ
しかし、あるとき、お友だちとのメールのやりとりのなかで、大好きな歌手についての話題が出たときに、友だちが、椎名林檎の歌を挙げていらしたのだ。
ホー。
そうだったか。
私は、お友だちが好きなものをともに共有したい、(もしも好きになれなくても)理解したいと思う可愛らしい人間なのである(と自分で言う)。
(*'‐'*)
これは、聴かずばなるまいて。
お友だちが好きな曲は『茜さす 帰路照らされど・・・』というタイトルだったのだが、いきなりだとおっかないので、一度聴いたことのある『罪と罰』が入っているアルバム、『勝訴ストリップ』を中古CD屋さんで買って、まず聴いてみた(度肝抜かれるタイトルでしょ?私がおっかながるのも無理ないでしょ?)。
これがねえ、ホントよかったの。
さすが、お友だち。
お友だちが好きなものを自分も好きになる瞬間って、なぜか、すごくうれしい。
(*^▽^*)
むせかえるほどの願望、痛みをともなうほどの切望、赤裸々な欲望、よりそう愛のさなかの不安と寂しさ、等々の椎名林檎の世界観が、もーモロ純好みであった。
さらに、お友だちが好きな唄歌いを心から好きになれたことが、満足感を幸福感へと引き上げる。
で、これに気を良くした私は今回、お友だちが好きな『茜さす 帰路照らされど・・・』が入っているアルバム『無罪モラトリアム』を購入したのである。
その感想文。
お友だちおすすめの『茜さす 帰路照らされど・・・』もよかったけれど、それ以外で私が気に入ったのは、『同じ夜』という曲。

♪泣き喚く海に立ち止まることも
 触れられない君を只想うことも
 同じ
 空は明日を始めてしまう
 例えあたしが息を止めても♪

という歌詞が、素晴らしい。
詩の世界がストンと心に落ちて、しばらくひとりきりになって、思索にふけりたい心境になった。
♪触れられない君を只想うことも 同じ……
♪空は明日を始めてしまう
という、永遠の“今”を求める儚い願望を
♪例えあたしが息を止めても
というせつなさが引き継ぐ。
引き裂かれまいとする渇望をもってすらけっしてつなぎ止めることのできない何かを、いっそ空に羽ばたかせる……。
あ、だめだ、涙が出てきちゃうデス(笑)。
(///;_;///)
くちびるがフルフルと震えだすデス。
自分でもわかってる、実は私って、強烈に感傷的な人間なんだわ。
それも個性と開き直ろうと思ってはいるのだが。
しかし、こういうカタルシス体験から流す涙は、決して悪い気分ではない。
今日まで生きてきてよかったという、歓びの涙だ。
……。
う〜ん。
とことん可愛らしいヤツでしょ、私って(また自分で言う)。
(^_^;)

ふう。
気持ちが落ちついたところで。
音楽CDはもう一枚買ってある。ラフマニノフのピアノ協奏曲集『Rachmaninov Piano Concertos1-4』だ。
ピアノを担当するのは、アシュケナージ。
実は、このピアニストを目当てに買ったCDなのだ。
私にはクラッシック音楽のことなんて何もわかんないけれども、ずっと昔に、ムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』のCDを買ったときに、ピアノを担当していたアシュケナージがよかったなと、覚えていたのね。
甘くてドラマチックなアシュケナージのピアノは、素人の私でも心から楽しめる。
そう考えて、このアルバムを購入した。
私のねらいどおり、アシュケナージのピアノは、甘く、香り高く、素晴らしいものだった。
これは聴いておくべきだと、自分の選択に満足しながら聴いた。
さて。
残るは、山村浩二氏の短編アニメ集『山村浩二作品集』DVDか。
実は、まだこのDVDを鑑賞していない。
これから、鑑賞します。
感想文は、明日ということで、勘弁ね。
(;^-^ゞ








漫画『はいからさんが通る』を再読してみた。(2003.6.7)

段ボール箱をほじくり返していたら、古い漫画本が出て来た。
大和和紀センセの『はいからさんが通る』だ。
小学生のころの私は、このラブコメ仕立ての少女漫画が大のお気に入りで、何度も何度も読み返した覚えがある。
時は大正7年。花開くデモクラシーと、資本主義の確立にともなう社会的矛盾の増大する時代。
人々が、新しい自由への意識にのびやかな夢をいだいていた時代の物語だ。
ハーフブーツにはかまといういでたち、平気で自転車を乗り回し、女学校では料理、裁縫、行儀作法の評価がすべて最低という落ちこぼれ女学生、花村紅緒(はなむらべにお)が主人公だ。
物語の冒頭、花嫁修業などという古い考え方に鋭く反発する、紅緒の友だちの環(たまき)のセリフが素晴らしく、全巻を通して最も印象に残っている。
環は、
「親の決めた縁談で、見も知らない男のところへ嫁ぐなんてまっぴら」
と言い、平塚らいてうを引用しつつ、
「わたしたちは、殿方にえらばれるのではなく、わたしたちが殿方をえらぶのです」
と夢見がちに決意する。
私は、環のこのセリフが大好きだ。
環の新しい女性像に、深く共感する主人公、紅緒。
しかし、そんなハイカラ紅緒の前に、親が決めた許婚の伊集院忍少尉があらわれる。
少尉という肩書きは、当時の大日本帝国陸軍将校をさす。
普段からカーキ色の制服に身を包み、ちゃらちゃらとサーベルなど腰に下げている男、それが伊集院少尉。
世界の歴史上、悪名高き大日本帝国陸軍のいち将校が、紅緒のフィアンセだ。
親が決めた結婚に強く反発する紅緒。
しかし、いつしかふたりは、互いに恋心を抱くようになってゆく(ゲゲッ)。
そんなおり、遠いロシアの地で、社会主義革命が起こる。
世界初の社会主義国家を転覆せんと、日本は他の同盟国とともにロシアに出兵する。
伊集院少尉も、戦地に赴く。
そこで、コザック兵の急襲に合い、少尉は行方不明となる。
……とストーリーは続いていく。
しかし、当時から私は納得いきかねていたのだが、どうして紅緒が選んだ愛する殿方が、伊集院少尉なのだろうか?
「陸軍将校とその嫁」なんて図を思いえがいただけで、せっかくの大正ロマンもあっという間に興ざめだ。
……興ざめを通り越して、ややもすればグロテスクでエグくすら感じる。
少尉の恋敵として登場する、「冗談社」なる出版社の編集長、青江冬星のほうが、何倍もカッコいいと思うのだが。
たしかに、大正デモクラシーと言っても、実際は女性に選挙権もなかった時代の話だ。
現実には、「わたしたちは、殿方にえらばれるのではなく、わたしたちが殿方をえらぶ」ことなど、できなかったろう。
「職業婦人」「モダンガール」という言葉が生まれ、女性の社会的自立の意識は着実に花開きつつも、やはり時代の限界というのはあったのではないか。
実質上、親の決めた許嫁と落ちつくところに落ちつくといった選択肢しか、当時の女性にはなかったはずだ。
「いつかはこんなふうに小さくまとまってしまうのが自然なのかもしれない」
と弱気になる環が、せつない。
紅緒の目には、きたるべき自由社会と、女性解放の象徴のように映っていた環の、寂しい言葉。
基本ストーリーとはあまり関係のない、こういう細部にこだわる私。
まあ、最終的に紅緒は、伊集院少尉に身も世もなく恋い焦がれてしまうから、親の決めた許嫁に“むりやり”結婚させられていく、というわけではないのだが。
しかし、ともかく。
「きっと素晴らしいことが起こる」、「きっとより良い明日になる」……大正という時代を、そういう予感に満ち満ちていたとする設定、作品全体のムードが、『はいからさんが通る』を大ヒット作たらしめたと、私は思っている。








『PiNMeN』というアニメーションを鑑賞して思ったこと。(2003.6.6)

インターネット書店Amazonにて注文していたアニメーション映画のDVDが届いた。
「BK1」で本を注文するのに飽き足らず、Amazonでも物欲の赴くままに散財しまくる私。
またなんか買ってやがる、と、脳内のコオロギさんが侮蔑する。
うう。
DVDのタイトルは『PiNMeN』だ。
実を言うと、正直なところ購入するつもりなんてまったくなかった。
監督の池田爆発郎さんの名前さえ、聞いたことがなかった。
それが、ふらふらとネットサーフィンしているあいだに、Amazonの商品紹介のページに飛び込んでしまったのが運の尽き(?)だった。
ピンメン(PiNMeN)とは、遠いどこかの惑星に住む宇宙人の名前である。
地球における“人間”にあたる存在がピンメンだ。
あらすじによると、彼らは圧倒的な科学力を持ち、戦争さえもとうの昔に過去のものとなった、非常に高度な文明を持っている。
だが、彼らの住んでいる星は、とてつもない貧困にみまわれていた。
食うに困った彼らは、水と緑があふれる惑星、遠い銀河系に存在する地球へと出稼ぎに向かう。という物語だそうだ。
いかにも私好みの設定!
ヴォネガットの小説のほとんどの作品に顔を出すSF作家、キルゴア=トラウトの物語をほうふつとさせる設定じゃないか。
アーシュラ=K=ル=グインの『所有せざる人々』の設定にも、少しだけ似ている。これは、完全共産主義の文化を持つ惑星から、完全資本主義の文化を持つとなりの双子星へと亡命する天才科学者のドラマだった。
とにかく、SFだ。
宇宙人から見た地球人、という設定が、私を魅了する。
気がつけば、注文ボタンをクリックしてしまっていたというわけ。
しかし、映像を観てわかったのだが、高度な科学力と知性を持つけれども、貧乏で平和主義な宇宙人の地球来訪という設定は、単なる物語上の背景でしかなくて、作中でまったく触れられることがない。
さえない表情をした宇宙人たちの哀れで情けない労働ぶりをコミカルに、ショートショート形式で描写しているだけだった。
圧倒的な科学力とか、戦争さえもとうの昔に過去のものとなったとか、とてつもない貧乏な星だとか、プロローグからエンディングロールまで観ていても何にも語られないし、わからない。
あー。
全部ドタバタだったのね、最後まで……。
ヴォネガット(の作り出したキルゴア=トラウト)の作品『おどるアホウ』みたいなお話を期待していたのにな。
『おどるアホウ』という架空のSF小説では、ある宇宙人が、地球滅亡の危機を人類に諭すために地球に来訪する。
深夜の地球に降り立った宇宙人は、あるボヤ火事を目撃する。
これは一大事!
宇宙人は、ベッドの中で眠りこけている住民をたたき起こし、火事から救出しようとする。
彼らは彼らのコミニュケーション手段を使って、眠りこけているひとたちの目を覚まさせようとする。彼らのコミュニケーション手段は、互いの発声による会話ではなく、人類におけるダンス、踊り、ボディランゲージによるものだった。
必死になって踊り狂う宇宙人。
人々は目を覚まし、ベッドのわきで身体をくねらせダンスしている宇宙人を発見する。
住民は驚愕し、火事はそっちのけでバッドを掴むと、宇宙人をボコ殴りにして殺してしまう。
……『おどるアホウ』……。
いえ、地球を訪れたピンメンたちをバットで殴り殺す話を書けって言っているんじゃないのよ、わかってると思うけれど。
(;^-^ゞ
キルゴア=トラウトには、似た作品がもうひとつある。
踊るアホウな宇宙人とは別の宇宙人が、地球の危機を訴えにやってくる。
しかし、彼は非常に小さな身体の……ちょうどマッチ棒くらいの大きさしかないミニ宇宙人だった。
彼は、町のまん中に立ち、地球の危機について大声で演説する。戦争、オゾン層の破壊、温暖化、貧富の差、公害、原子力、などなどについて訴える。
しかし、ミニ宇宙人の声は地球人類の誰にも届かない。
とうとう宇宙人は疲れて、しゃがみ込む。
ちょうどそのとき、ひとりのカウボーイが彼の存在に気がつく。たばこを吸おうとしていたカウボーイは、マッチを切らして困っていた。
いいところにマッチが落ちていたと、カウボーイは宇宙人をつまみ挙げ、火をおこそうとブーツにこすりつける。しかし火がつかない。あれ、おかしいな。
カウボーイはシュ!シュ!と何度も宇宙人の頭をブーツにこすりつけ、とうとう宇宙人の首は無惨に折れてしまう。
なんだ、しけってら、とカウボーイは宇宙人の死体を道路に投げ捨てる。
……。
私、かねてから、キルゴア=トラウト作品集をつくって、短編アニメ化したら面白かろうと思ってるんだが。
ヴォネガットが首を縦に振ってくれるかどうかだけど。
実現しないものかなあ。








ヴォネガットのヴィジョン。(2003.6.5)

戦前、イラクの大量破壊兵器の脅威を強調したのは、戦争を正当化する口実だった。
ウルフォウイッツ米国防副長官が、雑誌のインタビューでそう述べているそうです。
(開戦にふみきるさいに)「誰もが同意できる理由として、形式的に大量破壊兵器というひとつの問題に焦点を当てた」とのことです。
ホギャ〜!!
ホギャ〜!!
ホギャ〜!!
断末魔の悲鳴がこだまとなって、テキサスに響きわたるゼ。
創作された社会的合意。
世界に教訓を与えるために。
一匹の犬を他の犬の前で散々殴りつける。
殴って殴って、殺してしまう。
この犬には、噛みつくための歯がいくつもくっついているのだ、というのが理由だ。「形式的」な「口実」。
私たちはその光景を見ても、犬たちの痛みではなく、鋭角にとがったぎざぎざの犬の歯に思いをはせ、恐怖するのであった。
殺して殺して、まだ殺しつづけるとはどういうことか?
もちろん、虐殺や強盗なんて、私たち自身の歴史そのものなのだけれども、いっこうに実感がない。
子どもも大人も、男も女も、年寄も若者も関係なく、ズタズタ、バラバラに殺しつづけているというのに、そうした実感が皆無なのだ。
着ている服を引っぺがし、路上にけり出して、餓死や凍死させているという罪悪感を感じることがない。
これは、どうしたことなのだろう?
ヴォネガットの小説で、『タイムクエイク』という、人類が眠りこける病気になるお話がある。
人々は、ご飯を作りながら、車を運転しながら、恋にうつつを抜かしながら、眠りこけている。
眠りこけながら、「時震(タイムクエイク)」という現象が起きて、人々はぐるぐると巡る歴史の時間を何度もくり返している。
テロが起きて、人々が死んで、それを利用する権力者が人々の恐怖心をあおり、ドンパチやって、他国の財産を分捕る。
殺して、殺して、また殺す。
それを何度も何度も、うんざりするくらいくり返す。
しかし、みんな眠りこけているので、その繰り返しから逃れる術がない。
しかし、ふとしたことから、ある人物が目を覚ます。
目を覚ましたひとは、隣のひとをゆり起こす。
しかし、眠り込んでいるひとたちは、自由と、それにともなう責任に恐れをなして、目を覚ましたがらない。
目を覚ましたひとは、一計を案じて、眠りこけている人々に
「あんたはひどい病気だった、だが、もうすっかりよくなった」
と声をかける。
人々は目を覚ましはじめる。
やがてそれが、地球的合言葉になる。
「あんたは病気だったが、もう元気になって、これからやる仕事がある」
丸い地球のあちこちから、合言葉が聞かれるようになる。
「我々は病気だった、でも、もう大丈夫」
合言葉を最初に発した売れないSF作家は、人類に対する無類の貢献を評価され、ノーベル医学賞を受賞する。
という物語だ。
サイコー。
☆⌒(*^-゚)v
ヴォネガットの小説は、アメリカでは人心に有害として、学校の校庭で火にくべられたりもしているそうだ。
……。
何という美しいビジョン。
そして、何という悲しい、切ないビジョンであろうか。
私は震え、そして切望する。
私のくちびるよ、おずおずと動け。
「私たちは病気だったが、もう元気になって、これからやる仕事がある……」

*********************************************

アムネスティ事務局長は、2002年の世界の人権状況をまとめた年次報告書を発表した。
そのなかで、米国など多くの国の政府が自国の安全保障を優先し、人権を無視、侵害してきたと批判した。
アムネスティ事務局長は、アメリカ政府のすすめる『テロとの戦争』が世界をより危険にしていると政策を批判。
「それは、異なる心情、起源を持つ人々のあいだの分裂を深め、さらなる紛争の種を蒔いた」
とおっしゃってる。
もう一度引用しよう。
「それは、異なる心情、起源を持つ人々のあいだの分裂を深め、さらなる紛争の種を蒔いた」
彼の言葉が届かないのは、我々が眠りこけているためなのか?
望んで訪れたわけではないこの世界で、目を開くのが、怖くて仕方がないというのか。
アメリカ政府、そしてその政策を無条件に支持する日本政府は、世界的な紛争の種そのものだ。
異なる心情、異なる起源を持つ人々のあいだの分裂を深めることに、今日も腐心している我々。
彼らの声が私たちのところまで聞こえなくするために。
それでも叫ぶ彼らを容赦なくムチ打つために。
心地よい夢から覚めないために。








スタシス・エイドリゲヴィチウスが日本に来てる(2003.6.4)

スタシス・エイドリゲヴィチウス(Stasys Eidrigevicius)が6月2日から8日まで小樽に滞在しているそうだ。
私の大好きな絵描きさん。
うわあ。
小樽はさすがに遠い。
奈良とは言わないけれど、どうにか、大阪に立ちよってもらえないものだろうか?
スタシス・エイドリゲヴィチウスという名前の、きわめて覚えにくく発音しにくいこの絵描きさんは、2冊の絵本で知った。
ワンス・アポンナ・タイム・シリーズの『スノークイーン』、もう1冊は最近復刊された『ながぐつをはいたねこ』だ。
『スノークイーン』とは皆さん御存知、アンデルセンの「雪の女王」のことだ。ペローの『ながぐつをはいたねこ』ともども、今まで何回も絵本化された古典童話だ。
しかし、この古典物語を、もう1冊ずつ手元に置いておきたいと思わせる力が、彼の絵にはある。
そもそも、シュール画というのは、思わせぶりなだけで内容のない、ペナペナとして退屈な代物が多いが、彼の絵は充溢した絵画的ヴィジョンを心ゆくまで堪能させてくれる。
不安と切望に満ちた世界、という絵画上のコンセプトが、いかにも私好みだ。
もっとも、子どものころにスタシスの絵に出会っていたら、その不気味でシュールな画風に、きっと拒絶反応を示していただろう。
観念が作り出した二次元の虚構の場所に取り残されてしまいそうだと幼い私は直感し、尻込みしてしまったに違いない。
計算された抽象性、はりつめた緊張感。
ひそむ暴力性と、奇妙な意志の力のようなもの。
言葉で説明するとすれば、こんな言い方になるか。
大人の私は、こういう絵本に出会えた幸福にひたることができる。
この人の絵本はもう1冊翻訳されていて、『ながいおはなのハンス』というのだが、残念ながら絶版で未読だ。
表紙画像だけインターネット上で確認することができた。
素晴らしい出来栄えに、是非とも内容が知りたくなる。
しかし、読めない。
古本屋を探しても、ない。
読めないとなると、欲求はさらに増し、不満は高まる。
不満に比例して謎は否応もなく深まり、笑いながらも私は身悶えする。
読書の楽しみ方の極北に位置するような歓び。
縁があるなら、いつか、出会おう。

ポエムマンガに戻る / ホームに戻る