前の日記1 / 前の日記2 / 前の日記3 / 前の日記4 / 前の日記5 / 前の日記6

 / 前の日記7 / 前の日記8 / 前の日記9 / 前の日記10 / 前の日記11

 / 前の日記12 / 前の日記13 / 前の日記14 / 前の日記15 / 前の日記16

 / 前の日記17 / 前の日記18 / 前の日記19 / 前の日記20 / 前の日記21

 / 前の日記22 / 前の日記23 / 前の日記24 / 前の日記25 / 前の日記26

 / 前の日記27 / 前の日記28 / 前の日記29 / 前の日記30 / 前の日記31

 / 前の日記32 / 前の日記33 / 前の日記34 / 前の日記35 / 前の日記36

 / 前の日記37 / 前の日記38 / 前の日記39 / 前の日記40 / 前の日記41

 / 前の日記42 / 前の日記43 / 前の日記44 / 前の日記45 / 前の日記46

 / 前の日記47 / 前の日記48 / 前の日記49 / 前の日記50 / 前の日記51

 / 前の日記52 / 前の日記53 / 前の日記54 / 前の日記55 / 前の日記56

 / 前の日記57 / 前の日記58 / 前の日記59 / 前の日記60 / 前の日記61

 / 前の日記62 / 前の日記63 / 前の日記64 / 前の日記65 / 前の日記66

 / 前の日記67 / 前の日記68 / 前の日記69 / 前の日記70 / 前の日記71

 / 前の日記72 / 前の日記73 / 前の日記74 / 前の日記75 / 前の日記76

 / 前の日記77 / 前の日記78 / 前の日記79 / 前の日記80 / 前の日記81

 / 前の日記82 / 前の日記83 / 最新の日記



ポエムマンガに戻る / ホームに戻る




ノーベル平和賞(2009.10.14)

「見る値打ちのある物を、と言ったろうに。わたしはあんたにあんた自身の姿を見せてやったのさ」
 〜アーシュラ=K=ル=グウィン『こわれた腕環』〜


「道徳上の公理のひとつとして、道徳判断の普遍性の原理がある。つまり、われわれが他人に適用している基準と同じものを---それどころかむしろ、より厳しい基準を---自分自身にも適用しなければならない、という原理だ。
ところが往々にして、国家というものは、道徳上の公理を軽視しても許されるという特権があれば、その特権に甘んじ、自分たちだけは普遍性の原理から自由なのだと断言する。そして、われわれも、常にそうした主張を繰り返している。その実例は、日々、次々と目にすることができる」
 〜ノーム=チョムスキーの『お節介なアメリカ』〜


「銃弾をぶち込んでおいてから病院に担ぎ込む。汚いやり方だ」
  〜映画『地獄の黙示録』〜



「核兵器廃絶」を打ち出しているアメリカ合衆国オバマ大統領の、その偉大なる声明に対して、ノーベル平和賞が贈られるのだそうだ。
ノーベル賞委員会のめんめんは、
「核兵器のない世界というオバマ氏のビジョンと働きに特別な重要性を認めた」上で、さらに、
「対話と交渉が、もっとも困難な国際紛争でさえ解決する手段として好んで選ばれている」と、オバマ大統領の外交姿勢も手放しで評価したのだそうだ。
……えーと。

アフガニスタンでドンパチやらかしているのって、どの国だっけ?

私たちの言う平和ってのは、まあ、こんなもんだ!
なにひとつ成し遂げないうちから、「核兵器を廃絶するために努力しよう」と口に出して言いさえすれば、現実の街、学校、病院、住宅、飢えた人々の頭上に爆弾を降らせていることも問題じゃなくなる。

火の海になったとしても、俺たちの街じゃないもんな!

……まあまあ、アフガニスタンで死んでいく人間のうち何人かはアルカイダのテロリストだし、テロリストが根絶されたら、そのときはめでたくアフガニスタンにも平和が訪れるだろう。それまでは、アフガニスタン国民も、ビン=ラディンみたいにどっかの洞穴に隠れていればいい。
『デモクラシーナウ』から
オバマの戦争 アフガニスタン干渉の過去、現在、未来

おめでとう!平和賞!
いえいえ、どういたしまして!






 



ここでなければどこへでも(2009.10.11)

「人びとを惑わす説はそこらじゅうにあふれている。そのなかから真実を見つけ出すのは、わらの山から針を探しだすようなものだ。われわれはいつも用心を怠らず、強い意志と勇気を持たなければならない。そういう思考習慣を身につけることは楽なことではないが、それなくしては、目の前の重大課題を解決することなどおぼつかない。そしてこの世界は、詐欺師たちを大喜びさせるような、愚かなカモばかりになってしまうだろう」
  〜『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』〜


「多数派は常に間違っている。自分が多数派にまわったと知ったら、それは必ず行いを改めるか、一息入れて反省する時だ」
  〜マーク=トウェイン〜



自民党、公明党に変わって、民主党を中心とする連立政府が発足して2ヶ月ほどがすぎた。
自公政権末期は、自分たちの内紛をメディアの売り物にすることで国民の関心をつなぎ止めようとするようなありさまで、やがては国民の怒りを受け止めることもかわすことも不可能となり、さんざん悪あがきしたあげくに、敗北した。しかも、ただの敗北ではすまされず、二大政党の片割れの役割を担うことさえ出来ないほどに衰退し、

タイガースの7回裏の攻撃みたいに、無数の風船になってしゅーっと飛んでいっちまった。

風船を飛ばしたのは、「構造改革」などにうつつをぬかし、ありもしないバラ色の約束を信じていた国民自身だった。
自分とその仲間たちが勝ち組でありさえすれば、見知らぬ誰かが負け組のレッテルを貼られ辛酸をなめようとも知ったことではない、などという腐った根性をまんまとつかれた国民も、自分たちもまた負け組にカウントされていると「身をもって」理解して、ぶーぶーと怒り出したのだ。
民主党は、日本国民の遅まきながらの怒りを受け止めつつ、「障害者福祉の改善」、「老人福祉の改善」、「生活保護政策の改善」、「医療費・少子化政策の改善」などなどを打ち出している。
現時点での国民の要求は、大袈裟でもなんでもなく生死をわけるほどにせっぱつまったものだ。東京の主要駅のほとんどが、派遣村状態になっているという報道もある。
コイズミ改革への期待も夢想としか呼べない過大なものだっただけに、現状の悲惨さを目の当たりにした時、政策立案者&実行者への怒りは大きく、政治への感心もかってなく高まった。
自民党は、国民の要望に対して、なんら具体的な対策を打ち出せないままに、急速に支持を失っていった。では、国民の怒り、国民の要望を受け止めるのはどこか? 理屈から言っても、民主党だろう。そのような情勢の中で、民主党は、二大政党間での政権のキャッチボールという役割を越えたいわゆる「政権担当能力」というものを、国民、そして財界の双方から求められることになった。
これは、当の民主党にとっても思いも寄らないことだった。国民に対して、自民党とは違う政策方針を約束する、もしくは「政権担当能力」を見せつける必要が出てきた。
民主党は、コイズミと「カイカク」の急進性を競い合ったそれまでの方針を放り出し、修正し、転換し、あるいは隠した。
そして、

打倒自民党政治の役割を担う政党として、

降ってわいたような新マニュフェストをもって「私たちがみなさまの要望を受け止めます」と堂々と宣言した。
国民の要求を受け止めてみせます、という宣言は、国民と交わした契約だ。民主党は約束し、有権者はその約束に票を集中することで応えた。
新政府は、社会福祉を中心としてさまざまな部分で譲歩しますよ、場合によっては撤退もしますよ、煮え湯を飲みますよ、と言い、彼らにとっての危機的状況を自ら引き受けることで、「国民目線」のポーズとした。
それが単なるポーズであろうとも、ともあれ、新政府は国民の声に耳を傾け、自公政権では想像もできないところまで国民に譲歩する姿勢を見せているのは事実だ。
しかし、私はここでも、重箱の隅をつつくようなことをする。つまり、

譲歩するとは、国民の立場に立ちきる、と同義ではない。

まあ、国民の声に耳を傾ける、でも、譲歩でもいいとしよう。国民の要求の切実さは半端ではなく、それは自民党の歴史的敗北という結果につながった。
そうした現状では、圧倒的支持を得た新政府もまた、その支持が無条件のフリーパスではない、ということだ。
新政府としては、国民の要求と財界の要求を天秤にかけながら、国民に対して大きく譲歩する必要が出てくる。
堪え難かろうが、忍びがたかろうが、譲歩しなければ収まりがつかない。ことここにいたっては「これくらいの失血の覚悟もやむなし」と、政治エリートたちも財界も、国民との長期戦の腹をくくったのではないか。国民に対する、財界の戦術的撤退戦だ。
彼ら(政治エリート含む)にとって大切なのは、「国民の声に耳を傾け」ながら、撤退することで支持につなげ、時間を稼ぎ、その時間の中でもう一度、主導権を握りなおすことだ。
発作的で気まぐれな大衆から「政策」を遠ざけておくためのなんらかの仕組みなり、枠組みが早急に必要だ。
そして、時機を見て、大きく傾いた二大政党制度に活を入れるのだ、

『大脇道場』さんから、
民主党の「議員立法禁止」と「官僚答弁禁止」は、「脱官僚」という名の国会軽視・空洞化。

戦術的撤退戦を展開しながら、彼らは民主主義制度の本丸に狙いをさだめた。
政治フィールドの内と外を隔てている金網に電流を流そうというわけだな! 「みなさま、ファールボールにご注意下さい!」「金網を乗り越えないで下さい!」
『花・髪切と思考の浮游空間』さんからも政治主導という言葉だけが突出すると、法案を議員が提出する意味すらどこかに吹き飛んでしまうという警告が発せられている。

「比例定数の削減」、「単純小選挙区制の導入」、「国会議員定数の削減」、「官僚答弁禁止」
かってない危機的状況のただ中で、民主党に権力を集中して、抵抗勢力と戦おう、というわけだ。
「政治主導」の新しい日本! 未来の展望が開ける! 明るい未来。

…………本当かなあ。

私のハートが、これはだめだ、これはだめだと言う。


おまけ。


たかしの予言









 



革命的再版とは(2009.10.8)

「1940年代の前半、わたしたち子どもたちはサイエンス・フィクションを読んだものだ---(略)たいていわたしたちが待ち受けてきたのは、三流の雑誌だった。わたしたちは、三流の作品が好きだったからだ。『はじめに鳥ありき』で始まる話をわたしは覚えている。わたしたちは本当にその鳥を探したものだった」
 〜アーシュラ=K=ル=グウィン『夜の言葉』〜


「ところがあなたがた所有者は孤独なのです。みな牢獄につながれている。山ほどの所有物に取り囲まれながら」
 〜アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』〜


「アメリカの主張するところでは、「公共財」は存在しえない。市場だけが、分配、価格、食料、住居、学校建設、医薬品等々の決定を下す。20億以上の人間が極端な貧困状態にあるって? この状態を除去できるのは経済成長のほかにはなく、これは、貿易と市場を最大限に自由化することによってのみ達成される。それまでは貧しい者たちが自助努力するだろう(!)」
  〜ジャン=ジグレール『私物化される世界』 〜



今は絶版になっているが、このまま忘れ去られるにはあまりにも惜しい、人類の宝とすべき書籍なのだからいつでも書店に並んでいるべきだ、と強く感じずにはいられないような本がこの世には何十冊とある。
自分の部屋の本棚にある、もしくは図書館の蔵書にはなっている、ではだめだ。人類の宝と呼ぶにふさわしいのだから、日本全国津々浦々の書店でいつでも手に取ることができるようになっているべきだ、という本だ。
「本ごときで人類の宝とすべき、などと、そんなおおげさな」
と言う人は現実にいるが、「本ごとき」などと言うような人間は、もはやヒトの形をした別の生命体だ。「現実」にべったりと張り付くように生きていくことが人生だ、とおっしゃるなら、それはどうぞご自由に。電話帳でも後生大事に抱えていればいい。
例えば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や、トルストイの『アンナ・カレーニナ』……。これが人類の宝でなくて、他の何が宝だというのか。

青ざめるではすまない、たいへんな事態だ。

少なくとも個人的には、ドストエフスキーやトルストイやチェーホフらの諸作品と肩を並べる、と思えるような傑作が、平気で絶版になったままになっている。

ラッセル=バンクスの『大陸漂流』とか。

もったいない、なぜだ、ありえない、許されてはならない、自分が所有しているというだけでは満足できない、日本津々浦々の書店に並んでいるべきだ、次の世代へと読みつがれていくべきだ……言葉にすれば以上のような、強い不満の気持ちが私にはある。
そしてこの気持ちは、けっして私だけのものではないはずだ。
実に多くの読書家が古書店を丹念に回り、1冊2万円もの値がついたぼろぼろの文庫本を前にうんうん思案するといった事態が起きている。しかし、古書店で手に入ったからそれでよし、というわけではない。繰り返しになるが、傑作は傑作だから、傑作として相応しい扱いというものを、社会から受け取るべきだ。
本が好きな人になればなるほど、そのような想いを抱くことが多いような気がする。気がする、というのは、ネットの世界をうろついた上での印象だが。
人数が多いか少ないかはさておき、そのような読書家たちの強い再版の要望を一手に引き受け、集まったリクエストをもって出版社に考証してくれる、という実にありがたいサイトがある。
復刊ドットコムだ。
その『復刊ドットコム』に、ものすごいお知らせがあがった。革命的復刊だ。

アーシュラ=K=ル=グウィン『所有せざる人々』が再版されることになった!

『復刊ドットコム』によせられたリクエストのコメントはこちら。
『ゲド戦記』で知られるアーシュラ=K=ル=グウィンの、最高傑作だ。
これほどの傑作が絶版になっていたことが間違っていた。傑作という言葉を何度連ねてもまだ足りないほどの傑作。
早川SF文庫の青い背表紙が並んだ書店の書棚に、『所有せざる人々』を見つける喜び!
私はまた1冊、『所有せざる人々』を購入することになるだろう。
……。
これで、ラッセル=バンクスの『大陸漂流』が再版されたら……。
さらに、スタージョンの『コスミックレイプ』も、お願いしたいなあ……。
P=K=ディックの『流れよ我が涙と警官は言った』は再刊されてるみたいです。




 



キアロスタミの写真(2009.10.5)

「金持ちのゲットーで快適な生活を送るエリートたちにとっては、実際に世界はよりよい場所にちがいない。ポランニーであればこう言うだろうが、新自由主義者は「所得・余暇・安全を高める必要がない」人々に権利と自由を与え、残りの者たちにはほんのわずかなものしか与えないのだ。」
 〜デヴィッド=ハーヴェイ『新自由主義』〜


「新自由主義国家は、世界市場における競争主体になることを強いられ、また、できるかぎり最高のビジネス環境を確立しようとして、ナショナリズムを動員する。有利な地位をめざすグローバルな闘争の中で、競争はつかの間の勝者と敗者をつくり出すが、このこと自体が国民的誇りやナショナル・アイデンティティ追求の源泉となりうる。国際スポーツ競技でのナショナリズムはその表れである」
 〜デヴィッド=ハーヴェイ『新自由主義』〜


「キアロスタミは、映画が表現しうる最高水準の芸術性を具現化する」
  〜マーティン=スコセッシ〜



今度は生命保険をガラガラポンして金融商品化するんだそうです。
(^_^;)
『どこへ行く、日本。』さんから、
今度は人の死(命)の証券化 “懲りない”ウォール街の飽くなき金儲け追求


こりゃまたすごいラブストーリィー!!

! ( ̄□ ̄;)
愛の金融商品、映像化作品。

ザ・クリープショー!

あとは、ローリング・ストーン誌の『キャピタリズム〜マネーは踊る〜』の書評をお読み下さい。



--☆---

写真より写真集のほうが好きだという『Photo Addict 写真集中毒のススメ』さんが、
アッバス=キアロスタミの写真集を購入したという。


====================
ロードムービー調のシークエンスをなす写真は
雨空やフロントガラスに垂れる水滴とも相まって
どこか物悲しく感じました。

気になり調べてみるとキアロスタミの出生地である
イランのテヘランから脱出する旅路を撮影した物だと分かり
納得

車のヘッドライト、街の灯、通りを行く人々、
雨粒流れる車窓越しに撮影された抽象絵画の様な情景は、
きっと、彼の心象風景を映した内へのドキュメンタリーだと
思いました。
====================


だそうです。
……買おうかな。


おまけ。

2016年のオリンピック開催は、リオデジャネイロに決定!


 

 



Num Lockオン(2009.10.3)

「我が社の朝食シリアルには、こんなにたくさんのビタミンが含まれています、などというコマーシャルもある。しかしビタミンが必要なら、朝食と一緒にビタミン剤を摂ればいいことだ。同様に、カルシウムは栄養にはなっても胃炎に効くわけではないのに、制酸剤にカルシウムを加えて何が嬉しいのだろう。コマーシャル文化には、こんなでたらめとはぐらかしが満ちている。そしてそのツケは、消費者にまわされるのだ。消費者であるあなたは、疑問など抱かないことになっている。要するに、考えたりせず買いなさい、ということだ」
  〜『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』 〜


「占星術は、途方もないナンセンスが何千年も生きながらえていることの貴重な証人である」
 〜ダグラス=アダムス『銀河ヒッチハイクガイド』〜



運動図パソコンが起動しているモニターの前で、
「なぜこうなるんだ? わからん。困った!」
とひとりごとを呟きながら悪戦している人がいる。実によく見る日常的光景だ。
やがて彼(彼女)は、これはどうにもお手上げだ、となって、旧Mac武闘派の私に助けを求めてくる。
「一太郎で文章を作製しているのだが、テンキーで数字を打ち込めないんだよ!」
と、症状を教えられる。教えられてピンとくる。「Num Lock」キーがオフになっているのではないか?
☆☆(私のような旧Mac武闘派の方々のために解説しよう、運動図は非常に珍妙なことに、「Num Lock」キーがオンになっていないと、数字が打ち込めない使用になっているのだ!)☆☆
どんぴしゃ。
私の推測通りだ。「Num Lock」キーがオフになっている。「Num Lock」キーをオンにすると、望み通りテンキーを使って数字が打ち込めるようになった。
……数字を打ち込むためにテンキーを触っているうちに、無意識に「Num Lock」キーを押してしまっていたのだろう。オン状態の「Num Lock」キーを押したのだから、今度はオフ状態になる。つい数秒前までは打ち込めた数字が、突然うちこめなくなった。それで“うろ”がきたというわけだ。
万事解決。初歩的な問題でしたねえ、ははは。……って、おい。
ちょっと待ってくれ。立ち止まらせてくれ。

運動図のユーザーに対する、こういう純度100パーセントの悪意って、あまねく人々に苦痛を与える以外のどういう意味があんの?

そもそもテンキーの果たすべき役割と機能を考えた場合、余程の事情がないかぎり(ユーザーが意識して「Num Lock」キーを押そうが押すまいが)、「数字の打ち込みを拒否してくる」という反応を期待したり予測するユーザーは皆無だろう。
ごくごく常識的に考えてみてよ。

テンキーは、数字を打ち込むためにそこにあるわけじゃない?

なんか、変なこと言ってる?
(^_^;)
昨日の晩、弟に恐る恐るこのことを訊ねてみたんだ。すると、弟は唾棄するように
「運動図で「Num Lock」キーをオフにするとテンキーはカーソルキーになるんだよ(な、なんと!)。……わかってる、バカみたいだろ? 百歩譲っても、(テンキーをテンキーとして利用したいユーザー側から見て)「Num Lock」機能をオフにするとロックされ、オンにすると解除されるという仕様が、わけわからんでしょ?」
だって。
……。
真実、虚心坦懐にお訊ねするんだが、運動図ユーザーって、マゾなの?
(^_^;)
テンキーひとつひとつには0〜9までの数字が印字されている(ご確認下さい)。
印字されている数字を打ち込むと、なるほど確かに、ワープロソフト(でなくてもかまわないが)を起動したモニター上に、打ち込んだのと同じ数字が並んでゆく。
ここまでは、OK。
ところが、この上からさらに、カーソル機能の切り替えの役割を「Num Lock」キーに与えたりするのだという。
「8」という数字を打ち込んだはずのユーザーの目の前で、カーソルキーが飛び跳ねる!
誤って「Num Lock」キーに触ってしまったユーザーは、少なくとも瞬間的には動揺してしまうはずだ。
いや、確かに、一瞬後には、「ああ、「Num Lock」キーの仕業か」とピンとくるだろう。ピンと来なかった人は、隣の誰かに訊けばいいわけだし。
(^_^;)
……しかし、そもそもは、まったく必要のない動揺なわけじゃんか。つーか、運動図はこんなのばっかり。
ユーザーが混乱し、試行錯誤を繰り返し、悩み、疲弊し、どうにも手に負えないと判断してしまう、という状態に誘導するのがひとつの機能なのだ、というなら、その点に置いてのみ運動図は首尾一貫性がある。

結論。この世に悪が存在するとするなら、それは運動図である。
どーん。


おまけ。

木っ端みじん デジタル化で吹っ飛ぶ あなたの暮らし、自由と幸福

おーおーおー。
問題は、極悪運動図のさらに向こう側にある、例のシステムだ。

 

 



最後から二番目の真実(2009.9.29)

「ブッシュ大統領は、イラクに対する先制的予防戦争を遂行する上で他のいっさいの理由に根拠がないことがわかったとき、イラクに自由を与えることだけで戦争はじゅうぶんに正当化されるという考えに訴えた。イラク人は自由になった、それだけが真に重要なのだと。だが、ここで想定されているようなたぐいの「自由」については、ずっと以前に文化評論家のマシュー=アーノルドが思慮深い言葉を残している---「自由はとても乗り心地のいい馬だが、それに乗ってどこに向かうのかが問題だ」」
 〜デヴィッド=ハーヴェイ『新自由主義』〜


「自分の富も持たずに、労働市場で生き残れない者は「一片の食料たりとも要求する権利はないのであり、そして事実かれらがどこに行こうが知ったことではない」マルサスは彼の有名な著作の中でこう言い放った。貧民にはなお権利があるという信念を説くのは「重大な悪徳」であり、「自然な自由」に反するとリカードは考え……」
  〜『チョムスキーの「アナキズム論」』〜


「実業家の好きな言葉に、「利益こそが絶対だ」というのがある。言いたがらないのは「勘定は私が持ちます」ってセリフだ。連中が数字といえばそれは利益のことだ。
あんた、資本主義におけるこの教訓を楽しんでるかい?」
  〜マイケル=ムーア〜



マイケル=ムーア最新作『CAPITALISM: A LOVE STORY 』の邦題が決定した模様。
キャピタリズム マネーは踊る

……なんかさえん邦題だなあ。

『愛の資本主義』でええんちゃうの。

自画自賛するようだが、「愛を越える結婚があった」とか、「脳内革命」とかと、タメ張れるで、このタイトルは。
(^_^;)
『デモクラシー ナウ!ジャパン』で、タイムリーな動画記事があがってるね。
オバマの金融チームは金融危機を招いた張本人たち

あーあ。
しかし、アメリカの心配をしている場合じゃない。
民主党の金融チームはどうだろうか?
彼らは、自公政権とどこかどう違い、

どこがどう同じだろうか?

クエスチョンマークつきで「だろうか」と締めくくるのは、民意(日本の選挙制度が民意を反映しうるとは言い難いものであることは承知しているが、曲がりなりにも投票行動は行われたわけだし、100歩譲って「民意」とした)というものに対する私なりのせいいっぱいの敬意です。
(^_^;)
……最後に、ひとつだけ加えておく。
ラテンアメリカより愛を込めて。
チャベスからオバマへ、悪の枢軸へのおさそい!
行列ができる『隷属への道』にお並びの、日本国内新自由主義者のみなさんへ

アソウさんの失言、暴言とは、スケール感も質も100万光年かけ離れていますね。
(^_^;)


☆おまけ……というか、話はまったく違いますが。

マンガ雑誌、

『月刊アフタヌーン』最新11月号に掲載されているマンガ『ベントラーベントラー』は面白いぞ! ぜひ読みたまえ。

『ベントラーベントラー』は、台詞ひとつひとつにまでいきわたったSF的センスがずば抜けて素晴らしく、毎月楽しみに読んでいる連載マンガだが、今回は特に、いい!
どれくらい面白いかというと、カート=ヴォネガットの小ばなし『踊るアホウ』か、シオドア=スタージョンの『三の法則』を彷彿とさせるほどに面白い。少なくとも、SF的センスという一点では、負けてはいないはずだ。
これで、(そのセンスに見合うほどの)強力なメッセージ性があれば、これは、とてつもない傑作にすらなるじゃないかな、と。
いや、ホント。

 



下地領域(2009.9.27)

「カラヤンは、孜々として表面を飾ることに執心し(彼ほどに美麗に音楽を飾ることなどカラヤン以外の誰がなし得ただろうか?)本質的な問題にあえて目を瞑り、「世の中そんなに悪いものではない」という虚偽的、欺瞞的、自己陶酔的空想の価値観を人々の心に植え付け、かりそめの繁栄に酔わせ、現実的な貧困を隠蔽した。カラヤンの影響力はかくも大きい。カラヤンが凡人であったなら、このような価値観が支配権を握ることはなかったであろう。しかし、カラヤンは天才であった。優れた音楽家であった。人の羨む才能を多く持っていた。だからこそ彼の音楽は救いがたく犯罪的なのだ。
しかし、なにもこのような事態はカラヤンが音楽を産み出していったその初期から存在していたわけではない。その種は胚胎していたかもしれないが、時代の後押しがないかぎり、その種が大きな実を結ぶことはなかっただろう。責任はカラヤンと「大衆」双方にある」
 〜宮下誠『カラヤンがクラシックを殺した』〜


「餓えた犬は肉しか信じない」
 〜チェーホフ『桜の園』〜



以前の日記に、村上春樹氏の『アンダーグラウンド』の読書感想として、「地下鉄サリン事件は、経済の発展を至上命題とする社会が切り捨て見捨てた、心の復讐だ」という意味のことを書いた。
私は、自分が書いた文章は書いてほっぽりだしてそれっきり、という人だから、いつ書いてどう書いた、ということはうろ覚えだが、確かに書いた。
すると、しばらくして、幾人かの人から、
「地下鉄サリン事件の犯行を擁護するのですか」
「オーム真理教を持ち上げるのですか」
という批判を受けた。
「地下鉄サリン事件は、社会から無用だと切り捨てられた心の、社会への復讐だ」と言えば、「地下鉄サリン事件の犯行に関わった人々にも情状酌量の余地がある」と言ったも同じだ、というような解釈が、なるほど、ありうるのか。
なるほど、なるほど、と、妙に感心をしてしまった。事件の全容を理解しようとする、この、「理解を示す」のがいかん、というご趣旨だろうと思う。
理解をすればするほど、そして、その理解を外側に向けて表明すればするほど、それは擁護になる。少なくともそう聞こえる。それは、かなり遠回りな、ほのめかしのような形で、地下鉄サリン事件を認めることになるのではないか。ということだろう。
「○○はキチ○イだ」「○○は洗脳集団だ」というようなところから一歩でも二歩でも理解を掘り下げると、そのぶん、オームは持ち上がるのだ、という。
なるほど、と思う部分がないわけではない。
しかし、理解を掘り下げるとは、吉本隆明氏みたいに、オーム真理教に入信した若者たちを持ち上げるだけ持ち上げておいて、事件の首謀者がオームだということが決定的だとなると、反省の言葉もなにもなく、

『オーム信者の君たちへ』と題して説教をはじめる

というような行為とは、決定的に異なっているはずだ、と、私は反論はしておきたい。
……反論になってないか。つーか、論点がずれまくりか。
(;^-^ゞ
吉本隆明氏は、日本を代表する知識人なのだそうだ。
その知識人が、カルト宗教の教義に洗脳された若者に声をかけた、ということで、当時はそれなりに話題になった。事件以前の吉本隆明氏の言動は、不問に付されてないも同然となった。
これはどういうことか。
結局のところ、この国は、

不明や失敗の連続という戦慄すべき状況ですら、何らかの利益とつながっている、ということではないか。

あー、論点があさってになった。ま、いいか。
(;^-^ゞ
と、ともかく。お金を使って何かを購入する、という生き方以外の何ものも存在しない国なのだから、腐敗も失敗も惨劇も人の死も、

食べるものや着るものや住む場所や親しみや友情などと同じく、「商品購入」という方法でしかコミットできない仕組みになってる。

利用され消費され誰かの利益へと一直線につながって。まいどあり。
やはり心は切り捨てられたままだ。
心は、何度でも復讐するだろう。


 



新ひきこもり主義!(2009.9.25)

「インドネシアの女性は、生理中に2日間無給の休暇を取ることができるという成文化された権利を持っている。工場ではトイレをする機会が限られている上、大半の女性は、衛生用品や鎮痛剤を買う金を持っていないからである。しかしこのような休暇を取ると、工場で制裁を受ける恐れがあるため、こうした権利を要求する者などほとんどいない」
 〜クラウス=ベルナー/ハンス=バイス『世界ブランド企業黒書』〜


「今夜ここにおられる、感受性の高い多感な若い人たちのなかで、もし現在ぶらぶらしていて、家庭は機能障害を起こし、明日にでも本物のトワープになってやろう、という決意をされた方がいたら、どうか気をつけて。(略)
しばらく前、人生とは何だろう、とマークにたずねたことがあります。わたしはまったく手がかりをつかんでいなかった。マークはこう答えました。「父さん、われわれが生きているのは、おたがいを助けあって、目の前の問題を乗りきるためさ。それがなんであろうとね」」
 〜カート=ヴォネガット『追憶のハルマゲドン』〜


「いやだ。おれは民衆を信じている。おれは虎になり果てるまでは、民衆の一員だった」
 〜アルフレッド=ベスター『虎よ、虎よ!』〜



奴隷をやめてネオ☆ニートになろう!

「元パチプロの職歴なし男。日本のクソ労働環境が嫌で海外脱出。オーストラリア留学後、現地のデザイン会社に海外就職。シンガポールでのクソ日系勤務、海外ニート生活を経て、シンガポールにて外資系に転職、勤務中。夢はネオニートw

というプロフィールが私のハートをわしづかみにした『ニートの海外就職日記』さんから、
解雇規制の撤廃とクソ労働環境の交わらない関係


======================
それにしても、社会を動かしてる連中は労働者の怒りの矛先が自分らに向かわないように「社畜vs非社畜」、「正社員vs非正規」といった感じでうまく分断統治してるよな。まあ、ヤツらが一番恐れてるのは「クソ会社vs(一枚岩の)労働者」だろうから、何としても社畜の目を覚ましてやらないと。社畜が築いて来た価値観をブチ壊してやるくらいの勢いで間違いを指摘してやらないとな。社畜は本来「こっち側」の人間なんだから、それが「あっち側」のような振る舞いをしてるのはおかしいだろ?
======================

あわわわわ。
こりゃあ、革命が起こるんちゃう?

それも超過激や!ネオニート革命!

新しい。革命的すぎる!
ガンジーの戦術をさらに洗練させたものだな、ネオニート革命は。
かっこいい!


--☆---

マンガ好きのかたに情報。
マンガ雑誌『コミックリュウ』最新号で、高野文子せんせの付録あり。
おんぎゃあ!
『絶対安全剃刀』『棒がいっぽん』のあの高野文子せんせだ。


 



G20-幼年期の終わり(2009.9.22)

「株式市場は大規模なリストラが発表されるたびに高騰し、労働者の昇給のニュースでかなり落ち込む。いまの自由市場が発するメッセージはこうだ。労働環境がよくなることは、ビジネスにとっては悪いこと。それは「経済」にとっても悪く、どんなことをしても避けなければならない。このやり方は記録的な利益を短期間に生み出したが……」
 〜ナオミ=クライン『ブランドなんかいらない』〜


「皆さんよ、この結末をよく考えてくれ、知識は国境を越えて亡命した。
知識に飢えているわれわれ、彼も私も含めたわれわれは取り残された。
君たちは科学の光を慎重に管理しそれを利用し、決して悪用するな。
いつの日かそれが火の玉となって降り注ぎ、われわれを抹殺することのないように、そうだ、根こそぎにしないように」
 〜ベルトルト=ブレヒト『ガリレイの生涯』〜


「人類初めて、私たちは過剰な財を享受している。地球はその重みに耐えかねて、ほとんどくずおれんばかりだ。供給可能な財は人類の生存に必要な量を千倍も上回っている。(略)
地球上では、十歳未満の子どもが七秒に一人の割合で餓死している」
 〜ジャン=ジグレール『私物化される世界』〜



『デモクラシーナウ ジャパン』から
デービッド・ハーベイ 経済危機と新自由主義について語る

「資本主義経済は1750年以来、年2.5パーセントから3パーセントで成長してきました。
「2〜3年で3パーセント成長に戻る」とオバマ氏は言い、「数年中には2倍になる」と英首相は言います。資本主義が英国だけの現象だった1750年ごろであれば年3パーセントの成長で問題はなかった。でも今では年3パーセントの経済成長が世界全体で起こるのです。
これはまったく別の世界です。
1750年代の世界経済は1350億ドル、1950年には4兆ドルでした。2000年は40兆ドル現在は56兆ドル。数年中に2倍なら100兆ドルです。このペースでいけば2030年には資本を有効活用するために3兆人の雇用が必要となります。でも環境にも社会にも既に限界が来ていると思う。そろそろ切り替えが必要だ。ゼロ成長の経済を考える時です。


飽食の限りを尽くしてきた人類も、いよいよ「成長」することをやめる時が来たようだ。
母なる地球もこれ以上、人類の成長を支えることは不可能となった。
遅まきながら、「親切」を学ぶこと。
それは、今や、人類の存亡を賭けた、まったく未知の挑戦だ。


 

 



茶番とギャグ(2009.9.14)

「エンターテイメントと言った時、私はギリシア語のプシカホイアという言葉の方が好きです。このプシカホイアという言葉の中には、プシケ、すなわち、魂が入っていて、後ろのアホイアという部分は、学びという意味です。魂に何かを学ばせること、それがエンターテイメントです」
 〜コンスタンチン=コスタ=ガブラス〜


「あたしは……いつも、そんな物語に怒ってる
片っ端から消化されて、1年やそこらで忘れられてく……
使い捨ての快楽でもさ」
 〜『とらいあんぐるハート2』〜


石鹸と教育は大量殺人ほど急激な変化はないが、長い目でみればそれ以上に殺傷力がある
 〜マーク=トウェイン〜



『蟹○船(新)』と『ガ○の油』という二本の映画をたて続けに鑑賞して、すっかり心がささくれだってしまった。
いい歳こいで映画ごときにそれではナイーブすぎるだろう、と言われればこちらも苦笑するしかない。
諸事情もあって、細かいことは書かない。私が感じているのは、失望、無残さ、不満、そして恐怖だ。
作り手たちが才気走った絵を作ろうとするのはいい。しかし、最大の問題は、画がどうの、ストーリーがどうの以前に、語るに足る内容というものが決定的にないことだ(←容赦ないねえ)
(^_^;) 
別に辛口批評でも何でもない。『蟹○船(新)』で言えば、原作の読み込みの他に、少なくても労働運動の理論とその歴史くらいは、さらっとでも勉強しておかないと、これは話にならないはずだ。しかし、うまい下手ということではけっしてなく、そうした勉強の形跡がまったく感じられない。
何が労働運動だ、もったいぶった説教なんていらない、大衆娯楽作品を作るのだ、というわけなのか。しかし、劣悪で危険な労働の実態を真に迫って描くための、豊かなディティール、というものもない。危険な労働の現場に対する勉強の形跡も、これまた、ない。
語るに足る内容がない、というのは、作り手たちもさすがに自覚しているだろう。
そして、語るに足る内容がないから、作品のテーマに踏み込もうとした途端、どうしても茶番になる。
登場人物同士の軋轢、すれちがい、挫折、成長、心情の吐露、決闘、突然襲ってくる悲劇、主人公の決めぜりふ、

こういう部分が、ことごとく茶番だ。

基本的な部分が、どうにもこうにも茶番になってしまう。土台が茶番なのだから、いっそギャグにしてしまえ、ということで、

21世紀版の『蟹○船』は、微妙にわかりにくいギャグが連発する映画となった。

嘘だと思うなら、ぜひ、ご自分の目でご確認いただきたい。しかし、心がささくれだっても私は責任を負いませんよ!
そんなおり、こんなニュースにでくわす。

松ちゃん“お題”出し、新人作家が漫画化!』。

========================
 監督・主演作『しんぼる』の公開が間近に控えたダウンタウン・松本人志と、漫画雑誌『モーニング』(講談社)による特別企画が、3日発売の同誌より5週に渡ってスタートした。劇中に登場するアイテムと「“偶然”と言う名の“必然”」など、松本からの“お題”をテーマに気鋭の新人若手漫画家5人が自由に短編漫画を描いていく。
(略)
 今回の新しい試みに同誌編集長・古川公平氏は「新しいこと、誰もやっていないことを形にしようという松本監督の姿勢に共鳴しました。とにかく誰も見たことがないものを作りたいというのが、僕たちモーニングの姿勢です。
========================

「機会をとらえてモノを売りまくる」などという姿勢をこれほどまでに露骨にむき出しにして、これはもう、茶番を通り越して、ギャグですらなく、私にとってはホラーだ。
「どこが「機会をとらえてモノを売りまくる」などという姿勢なのですか。どこが、内容がない、なのですか」
と感じる方もいるだろうか。
これ以上なにか書くと、どんどんまずくなるので(笑)、これ以上はやめておきます。
私は、傷ついた心を、ダルデンヌ兄弟の『ロルナの祈り』を観賞することで癒しました。


エンターテイメント。それは魂になにかを学ばせること。(コンスタンチン=コスタ=ガブラス)


 

 



昨日は9月11日だった(2009.9.12)

「今日が水曜日なのはたしかにわかっている。昨日が月曜日だったことも知っているが、それでも、月曜日といまのあいだには隙間がある。その隙間がきっと……」
 〜シオドア=スタージョン『昨日は月曜日だった』〜


「戦争は勝者を愚鈍にし敗者を邪悪にする」
  〜フリードリヒ=ニーチェ〜


「なるほど、梨のごっつい芯だけ戦争に食わして、おいしいところは抜き取って自分でせしめようって魂胆かい。子どもを育てられたのは戦争のおかげだろうに、その利息は払わないってか? それでどうやって戦争が成り立つ?」
  〜ブレヒト『母アンナの子連れ従軍記』〜



昨日は9月11日だった。
不思議なことにまったく意識にのぼらなかった。
言われて気がついたのだ。
昨日は9月11日だった。
ニューヨークのテロから8年、コイズミ郵政占拠もとい選挙から4年、世界最初の新自由主義政権が誕生したチリのクーデターから26年。


チリの「昨日は9月11日だった」


アメリカの「昨日は9月11日だった」

ショーン=ペンのこれはかなりテクニカルな映画だ。テクニカルで、予言的で、するどい批判力を発揮している。その批判の鉾先は、アメリカ合衆国の社会システムにまっすぐに向けられている。
よくアメリカで上映できたと思う。
アメリカ人は、この映画が何を語っているかわらからず、それで上映が可能となったのだろう。そしておそらく、日本人にはもっとわかりにくい。
物事を吟味する訓練を怠っていると、短編映画ひとつ理解できなくなる。

ボスニアの「昨日は9月11日だった」

集会所の壁一面に貼られた写真は、内戦で行方不明になった家族たちですね。

イスラエルの「昨日は9月11日だった」

街なかで自爆テロが起きた。テレビリポーターが現地へと出動する。しかし、テレビはその模様を放映しようとしない。なぜか。理由がわからないリポーターとクルーはとまどう。彼らはニューヨークで起きている事件を知らなかった……。その日は2001年9月11日だった。
そして、パレスチナでは毎日が9月11日だった。





 



最近買った本・マンガ・DVD(2009.9.10)

「「マーサー(神)はまやかしじゃない」リックはいった。「現実がまやかしでないかぎり」 」
  〜P=K=ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』〜


「アシモフもヴァン・ヴォークトもブラッドベリもクラークもハインラインもディックも読んでないやつはSFファンでないどころか、単なる愚民なのである」
  〜森奈津子『地球娘による地球外クッキング』〜



いえ念のため断り書きを入れておきますが、

アシモフもヴァン=ヴォークトもブラッドベリもクラークもハインラインもディックも読んでいなくたって、愚民じゃないですからね。

『地球娘による地球外クッキング』という小説の中のジョークっすから。
(^_^;)
だいたい、さすがにクラークくらいはみんな読んでるよな!
なぬ!SFは『ドラえもん』しか知らんとな。
……まあ、あれだ、これから読めばいいよね。
(^_^;)
ね、フクダさん?

どぎゃぎゃぎゃあああ!アンチユートピアSFお笑い系!
(^_^;)

ほんでコイズミさん。

どげええええ!


最近購入した本リスト。
==================
『共産党宣言』
『空想から科学へ』
『ハンナ・アーレント』
『活憲の時代 コスタリカから9条へ』
『愛と平和の文学教室-ブレヒトとチャップリンに魅せられて』
『ハローサマーグッバイ』(SF)
『時間衝突』(SF)
『母アンナの子連れ銃軍記』

・絵本『みにくいおひめさま』

・雑誌『月刊アフタヌーン』
・雑誌『グッドアフタヌーン』
・雑誌『MacFan』
・雑誌『将棋世界』
・雑誌『ナンバー』(オシム・インタビュー)

漫画『ぼのぼの32』
漫画『鈴木先生1』
漫画『鈴木先生2』
漫画『のだめカンタービレ22』

最近購入したDVD。
==================
『ロルナの祈り』
『ローラーとヴァイオリン』
==================

SFに分類されていたので、マルクスの『共産党宣言』とエンゲルスの『空想から科学へ』を購入する。

そりゃあ、空想から科学、だかんな。

それと、ハンナ=アーレントの入門書(?)も購入。
最近、ハンナ=アーレントの本がぽつぽつ売れ出していると聞いたもので。
全体主義の苛烈な批判者であるアーレントの本が売れる、ということは、ようやくここ日本でも、プロレタリア執政以後の世界に目を向ける人々が出始めている、ということではなかろうか。
松岡正剛氏に言わせれば

「正直なところをいうと、このようなアレントの説明はかなり古っぽい。あるいは言うまでもないことをくだくだと説明しているようにも見える。カントもマルクスもハバーマスもこんなことはとっくにお見通しだった。そうも、思える。」

ちゅうことらしいんだけど、そんな、ねえ。
(;^_^ A
彼女が自分自身で切り開き、見つけた宝物じゃん〜。
カントやマルクスの本をうのみにせずに自分で切り開いたものだから、なんつーか、実体験に根差した、妙な説得力があるんよ。
まあ、本を読むことは悪いこっちゃない。
と言いつつ、漫画ばっかり読んでます。
風呂前有センセの読み切り目当てに、漫画雑誌『グッドアフタヌーン』を買う。
詳しいことは書かないけれど、雑誌なり出版社なりが、リスクを漫画家のほうに背負わせよう、背負わせようとして、漫画作品がゆがみにゆがむ、という裏の事情が透けて見てるような内容だった。
漫画の描き手が、これで満足ははずはない。
それでも、風呂前センセの優しさ、心根のまっとうさ、としか言い様のない何かを、はっきりと感じ取ることができる。
このように心根がまっとうであるなら、そのまっとうさをまっすぐに、貫き通させてはもらえないものだろうか。

「漫画は文化だ」と本気で主張するのなら、個々の漫画作品を消費物としてのみ扱うのは、完全に間違っている。

文化であることと消費物であることは、根っこの部分で対立しあってる。
“日本文化”の内側では、とても信じてもらえないか。でも、時の流れに耐えうるからこその文化なんで、消費されちゃうものは文化とはいえんわけです。
まあ、「消費文化」 という文化なのだ、と言われたら、どうしようもないけどね。



 

 



華氏8/30(2009.9.7)

「嘘は政略家やデマゴーグばかりでなく、政治家の取引にとっても必要かつ正当な道具とつねに見なされてきた」
  〜ハンナ=アーレント〜


「独裁政治の方が簡単でいいね!」
  〜ジョージ=W=ブッシュ〜


「人は物事をみて、「なぜ」と問う。しかし私は、決して存在していないものを夢見て、「なぜそうでないのか」と問う」
  〜バーナード=ショー〜




鵜飼の鵜のように、票をがーっと吐き出して、ほいご苦労さん! 有権者のお仕事はこれにて終了です。
あとはぜんぶ、新政府におまかせください。
ぜんぶです、すべてです、何もかもです。何も聞かず、何も問わず、一緒に頑張りましょう!
んで!

オザワが幹事長だとぉ! 国民なめくさるのも一日一回が限度じゃあこらあ!



鬼畜ブログ『郊外のカナリアもさっき死にました』さんから、
小沢なんかな、民主を叩き出されて派遣村の炊き出しに並んでるのがお似合いだ

========================
 鳩山氏は会談後、小沢氏起用の理由について「小沢氏は『全力で支えます』と言って、次期幹事長に決定した。今回の選挙で代表代行として頑張っていただき、300を超える議席を得ることができた。参院選でも勝利を収めなければならない」と記者団に述べた。閣僚人事については「首相指名までの間に正式決定はあり得ない」と強調した。
 小沢氏も記者団に「代表から幹事長就任の要請をいただいた。私としては党人でございますので、代表の要請をお受けすると返事をしてまいりました」と語った。
========================

もー「国民への説明責任」以前の問題。
「今回の選挙で代表代行として頑張っていただき、300を超える議席を得ることができた」とか、国民を嘲笑する以外のどんな意味があんの、この発言。
日本国民は自分の口とケツの穴の区別もつかないつってるようなもんじゃん! アソウさんの失言どころのさわぎじゃないだろ。モロ、あほ扱い。
ぎゃあああああああ! 考えれば考えるほど、怒りで気が狂いそうになるぜ!

 

おまけ。

チャップリン。


 

 



危機は無慈悲な詐欺の温床(2009.9.5)

「嘘も繰り返せば真実となる」
  〜ゲッベルス〜


「何か抗議の言葉ぐらいは出てきそうな成り行きとなった。しかし、ちょうどそのとき、まるで合図を受けたみたいに、羊たちが、みんなそろって、いきなり---「四本脚はよい。二本脚はもっとよい! 四本脚はよい。二本脚はもっとよい!」
  〜ジョージ=オーウェル『動物農場』〜


「俺たちは途端に無慈悲になるんだ。それどころか、福祉、食料切符、住宅補助を削減しろ!と目の色を変える。ミシガンじゃ、生まれて12週もすれば、もう立ち上がって働け、と知事様はおっしゃる。同じカトリックの知事様がだ!」
  〜マイケル=ムーア〜



自分たちにとって都合の悪い歴史的事実を、4200万のお金を積むことで隠ぺいしようとした---少なくとも、この件でうちを悪く言うのはやめて〜と懇願した---政権交代前の

日本国政府の度し難い振る舞いぶりについてのお話。

(^_^;)
1億積もうが100億積もうが、アメリカがそれを非難しようが非難しまいが、歴史は変わらない。変えようがない。
しかし、歴史的事実などどうでもいい、自分たちの気分や自意識こそが問題なのだ、という態度の一点張りで無理を押し通そうとした。お金を積みさえすれば、無理も押し通すことが可能だ、と信じて、実際にお金を積んだ。
日本という奇妙なまでにクローズドな国において、世界とはアメリカ合衆国とイコールだ。だから、お金が向かう先は、アメリカ合衆国となる。
ある程度の額のお金を積めば、アメリ合衆国から聞こえてくる非難の声を押しとどめることも可能なのではないか。外交などないに等しい日本という国の内側で、アメリカからの声さえ封じれば、それで「すべて事足りる」と、思った人もいるのだ。
都合の悪いことは、なかったことにすればいい。なかったことにするには、アメリカ合衆国に働きかければそれでいい。
俺たちが「事足りる」と言ったからには、これでなにもかも「事足りるのだ」といった、他愛ないというか、救いようのないというか、他者というものに思いが至らないところが出発点となっている。
そんなばかな、と言ってもどうしようもない。思いが至っていないのだから、とにもかくにも

頑として貫き通して、これが日本、これが日本なのだと胸をはり続ける。

資本主義社会において、この世のすべては商品なのだから、幸福も歴史も金で買うことが可能だ、と思い込んだのか。しかし、そんなもの、日本の外側に一歩でも踏み出した途端、いっさい通用しない。そもそも、金で買えたとしても(買えなかったけれど)それにしたって、アメリカ合衆国一国からの非難の声のみだ。
その他の国、とくにアジア諸国にしてみれば、受け入れがたい以前に、とても正気の沙汰とすら受け取ってもらえないはずだ。
それでも、自分たちの仲間内でだけ通用するなら、それでいい。自分たちはどこまでも内向き、内向きに生きていく。そうやって開き直った末の4200万円だ。
そんなクローズドな振る舞いを「民族の自己完結したありよう」などと自らに言いくるめ、見苦しさと頑迷さを奇妙な支えとして、日本民族は千代に八千代に愚かしい。
ワオ!
ちなみに、政権交代後の某極東国はどうなったか。

政権交代でも自公との合意踏襲/「在日米軍再編 再交渉せず」(NHKほか)
……あかんわ。
この危機的時代に、国民が手を取りあって改革を推進していくんだってさ。

古い言葉で搾取、今で言うたら改革やな!



わしらはすでに、がっちりとカタにはめられてるんだよ。
こんなふうに(さあ算数の時間ですヨ!)


おまけ

ロシアの歴史修正主義。
ロシアも日本も、自分たちに都合のいい歴史作りに大変ご熱心。
今で言うたら新しい歴史教科書や!

いつでもどこにでも、同じようなやつはいるもんだ。。
国境を越えて、民族を越えて、歴史を越えて、痛みに耐えるのはいっつも私たちなのよね〜、奥さん。

 

 



*ケーゲルの指揮棒*(2009.9.3)

「殺人が靴のひもを結ぶように日常的な行動だとわれわれに信じ込ませるのに、だれがヨゼフ・ゲッペルスを必要とするだろう? 独立経営で、巨大な視聴者をつかまらなければ生き残れないテレビ産業があれば充分だ。
わたしはあの説教壇からこういうべきだった。われわれは地獄へ落ちようとしているのではない。すでに地獄にいる。そうなった元凶は、ほかの道ではなく、この道をとれとわれわれに教えるテクノロジーのせいだ。テレビだけではない」
 〜カート=ヴォネガット『死よりも悪い運命』〜


「民衆には、感動を誘う極めて単純な物語を投げ与えておけばよい」
  〜ラインホルト=ニーバー〜


「彼(ヘルベルト=ケーゲル)は資本主義の欺瞞をするどく嗅ぎつけ、社会主義によってそれを克服できると本気で考えていた。しかし彼の言う「真正な社会主義」など絵に描いた餅に過ぎなかった。世の中は、右も左も欺瞞だらけだ。それでもケーゲルは戦い続けた。
その音楽の苛烈さはどうだろう」
 〜宮下誠『カラヤンがクラシックを殺した』〜



今回の選挙の細かい分析などやる気も起きない。
だったら黙っていたらいいじゃないか、とも思うのだが、現時点で私が感じている底が抜けるような恐怖、失望、虚無感、怒りの感情というものだけは、どこかに吐き出しておきたいという欲求がある。
(;^-^ゞ
ので、『非国民通信』さんと『きまぐれな日々』さんの分析にリンクを貼らせていただく。
細かい部分には異論もあるけれども、選挙結果の分析の面では基本、同じ理解をしています。
まずは『非国民通信』さんの
『選挙の感想です』

==============================
ちなみに、わずか1議席ですが みんなの党が議席を増やしました。逆に国民新党は1議席を減らしました。小さな変化ではありますが、ある意味では象徴的なものなのかも知れません。つまり自民党の中でも「古い」部分を濃厚に受け継ぐ保守系の国民新党が後退し、自民党の「新しい」部分が最も先鋭化したカイカク系の みんなの党が前進したわけです。自民党が否定されているのは確かなのでしょうけれど、それはむしろ小泉以前の「古い」部分こそが強く否定されているのであって、小泉以降の「新しい」部分は今なお支持があることを意味しているのではないでしょうか。
==============================


次は『気まぐれな日々』さんの
『衆議院選挙で民主党圧勝 ろくな議員が残らなかった自民党』

==============================
今回、自民党にどんな政治家が残るのか、私は注目していたが、結局残ったのは世襲議員と右翼議員ばかりだった。私は、無所属を含めて、当落線上にいるといわれた8人の右翼候補の当落に注目していた。町村信孝、中川昭一、稲田朋美、森喜朗、野田聖子、高市早苗、平沼赳夫、鳩山邦夫。彼らのうち、落選したのは「もうろう会見」で不信を買った中川昭一だけだった。安倍晋三、麻生太郎、城内実などは余裕の楽勝だった。
==============================

==============================
今回、有権者は民主党の圧勝をもたらしたが、懸念していた通り保坂展人(社民党)や亀井久興(国民新党)を落選させてしまった。かつてコイズミの郵政民営化に熱狂したと同じ人たちが、今回は「政権交代」の風に流されたのだからどうしようもないが、今回の選挙結果をもって有権者の民度が向上したなどとは間違ってもいえない。
==============================

私には感受性というものがそなわっているらしい。だから、したがって、ゆえに、私は今日という日をとびっきり不愉快に生きる。
なので、ケーゲル指揮のショスタコーヴィチ交響曲セットを購入した。

いつの日にか来るのだろうか、ショスタコーヴィチがクラシックとして聴ける日が。

……どうだろうね。
私が生きている間は、彼らはSFのままだろうな。
ケーゲルの幽霊が見えない指揮棒で、わしの脳天にムチを入れまくってる。
ズンチャッチャ!ズンチャッチャ!




おまけ

ロシアアニメでも観ていよう。


ゴゴゴゴゴ……。



ポエムマンガに戻る / ホームに戻る