*姫林檎日記-細腕出張スペシャル*
買ったばかりのデジカメ画像などを使って、純の『絵本』大学(!?)での勉強ぶりをスペシャルでお届けいたします。やんや、やんや、パフパフパフ!!(*^▽^*)

たどりにくいリンクを少しでも改善するため、絵本大学エピソードシリーズをまとめてみました。

エピーソード(1) / (2) / (3) / (4-1) / (4-2) / (5) / (6) / (7) / (8)


絵本工房in絵本大学inぱふ エピソード3

2002年4月から絵本のお勉強をするために、京都宇治にある、絵本とヨーロッパの木のおもちゃの店“KID'Sいわき ぱふ”さんに通っていた純。高山智津子先生の絵本の講義を受けていたのであります。

絵本の山に囲まれて、口元をほころばせてらっしゃる高山智津子先生。

『絵本の歴史』などという、何やら難しいお勉強もありました。
いい国作ろう鎌倉幕府。いやちがう。
絵本の歴史とは、すなわち、幼い子どもたちの教育の歴史でもあるのですね。まだ小さい子どもたちに、社会とは何か、公共とは何か、他者とはどのような存在かを教え、イロハや数字などの文字を読むことを教え、社会の一員として機能するように育て上げる。
……などと書くとちょっと怖い気もしてくる純ですが、それは事実です。
純の小さいころ、『ぶたぶたくんのおかいもの』という絵本があって(今もある)、そこに見開きの地図がついていたのですが、当時の純はいつまでもいつまでも、その地図を眺めていたことをふと思い出します。
ぶたぶた君のお家、お友だちのお家、パン屋さんに八百屋さん。
公園を中心に円を描いてひとめぐりする道に、さまざまな家々が点在する、そういった地図だった記憶があります。
大人になった純が当時を振り返ったとき、何がそんなに面白かったのかという気がするけれど、地図って、子どもにしてみれば、抽象的な概念理解力をものすごく必要とするんだと思う。
家の絵を描けといえば、正面から見えた通りに描く。道を描けと言われてもそう。
だけど、地図は鳥瞰図で、上空から描かれた家や道や公園が、地面にへばりついている自分が見ている世界とどう対応しているかを理解するのって、けっこう難しい。
……じゃないかなあと。
当時の純にとって、『ぶたぶたくんのおかいもの』の地図って、特殊な魔法か何かに見えたんじゃないかな。

ぱふさんには絵本だけでなく、シュタイナー教育の本なども置いてある(純はシュタイナーは詳しくないですが)

幼い人たちの想像力を育んだり、文字を読むことを教え込んだりするのに、絵本は極めて高い能力を発揮するから、昔々から、絵本は親、教育機関に注目されつづけたわけです。
戦時中などは、お国のため天皇陛下のため立派な兵隊さんになって、ひとりでも多くの人殺しをするような社会構成員を製造するための教育が、絵本を通じて幼い人たちの脳にすり込まれたりもしたわけです。
当時の日本国においては、そのような社会を支えるための国民作りが、必要とされたのね。
社会というものを、日本国などというちっぽけな地域社会とイコールしてしまうと、こういう情けない事態も起こる。
社会正義と一口に言っても、イラクとアメリカじゃあ内容が全然違うんだな。
国家ってなにさ?

すわ!アドラー心理学の野田俊作先生の著書が平積みに!!『アドラー心理学トーキングセミナー』は名著ですよ、みなさん。

視点はいつもグローバルに。想像力とは元来そういうものではなかったか、と、高山先生の講義を聞いていて純は思ったんです。
幼い純が『ぶたぶたくんのおかいもの』の地図をにらみつけ、そこに一体何を見いだしていたのか。
それは、世界の捕まえ方だったのだと思うんだよね。
もっと、もっと、高い高い場所から、さらに、さらに、遠い場所まで。昔々聞いたこともない昔から、思いもつかない未来まで、世界を見渡す力を得るためでなかったか。
どうだろう?
純はそう思っているのだけれど。

絵本の歴史を見つめる高山智津子先生。

*お知らせ*
『絵本大学inぱふ』の卒業文集、引き続き、鋭意製作中です。
さて。
『絵本大学inぱふ』文集の制作過程にて、ページ数等の理由により、『あとがきにかえて』の原稿が没になりました。
もったいない(?)ので、ここに載せておこうと思います。
文集の性質上、いつになく説教調です、気をつけてお読みください。
(;^-^ゞ


『あとがきにかえて』

ある日、テレビのコマーシャルを見て衝撃を受けた。
設定は学校の職員室。そこに進路指導の教師と十代の男の子がさしむかいで座っている。
斜め上からカメラがふたりを俯瞰している。これから、男の子の将来について、本人の希望をまじえながら話さなければならないという、そういう状況のようだ。
「将来は何になりたいの?」と教師が優しく男の子に訊く。男の子は一瞬考えて、
「勝ち組!」と叫んだ。
教師は、よもやそんな答えが返ってくるとは思っておらず、虚を突かれる。あっけにとられる教師をさしおいて、彼は広い運動場めがけて駈けてゆく。ふっ切れたような彼の表情が私には印象的だった。
いったい、これはなんの宣伝だったのか。ぼんやり見ていた私は、そこのところを見逃した。しかし、テレビの作り出すフィクションとはいえ、多感な十代の若者の夢が『勝ち組』などとは、いったいどうしたことなのだ。
このコマーシャルには女の子の登場する別バージョンがあって、将来の希望を訊ねられた女の子は、
「社長!」と叫ぶのである。私が衝撃を受けるのももっともだと思いませんか?
勝ち組や社長になるためにこの子らは生きるのか?彼らの明日とは、勝ち組と負け組、社長と雇われ労働者という、そういう明日なのか?
スタインベックの『怒りの葡萄』を読んだことないのかな、この子ら。
社会の本質的な豊かさや発展性に思いをはせることもなければ、自らを振り返ることもなく、能天気に勝ち組だとか言って、あとあと、泣くことになっても私は知りませんよ。
バーバラ=クーニーの傑作絵本『ルピナスさん』も読んだことないのだろうな、とも思う。
かく言う私、『ルピナスさん』と出会ったのは一年前だから、わけ知り顔で胸をはれるわけではないけれど。
でも、せっかく翻訳されて日本語で読めるのだから、読んでいたほうが絶対良いと私は思う。
絵本の冒頭、幼いころのルピナスさんが、おじいさんとする大切な約束。
「世の中を、もっとうつくしくするために、なにかしてもらいたいのだよ」
素晴らしい。
おじいさんが孫に語る言葉として、溜息が出るほどに素晴らしい。
そして、おじいさんとの約束を果たすときのルピナスさんの、寓意と抽象性にあふれた、オリジナリティと創造性たっぷりのやり方ときたら!
美しい、とは、まさしくこのことだと、最初に読んだときに私は思わずうなってしまったくらいだ。
この絵本が描かれた理由とは何か。
社会と個人のもっとも理想的な関係のあり方の、ひとつの見本を提示することが、この絵本のテーマらしい。
ルピナスさんは、周囲の誰よりも自分自身であり続けるがゆえに、彼女だけのやり方で世界を美しくできるのだろう。逆説的なようだけれど、それは真理だ。真に強固な主観性を自分のものとしていなければ、客観性、世界との建設的な妥協点、他者との協力関係による前進力を構築することは不可能なのだから。
世界を美しくするとは、けっして奉仕活動ではない。
そして、おじいさんとのあの約束がなかったら、主観も客観も何も、社会に対して肯定的な意味を持つことがなかったはずだ。
ルピナスさんは、責任という言葉を実感として体得している。だから、今日よりも少しだけ素晴らしい明日を、無理のない自然なこととして実現してゆけるのだろう。
こうして絵本は、様々なことの出発点となり、我々に影響を与えてゆく。テレビコマーシャルがそうであるように。
最後に。
この本が終わりではなく、いつの日か皆さんとともに第二巻、第三巻を作れるように願ってます。
高山先生とぱふさん、一年間をともにしたみなさんに心からの感謝を込めて。
編集委員を代表して:溝江純

朝早く絵本大学の準備を進めるT.Mさん。カメラのセッティング中。

エピソード4-1に続く。


2003年2月24日  溝江純

 

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